海外文学読書録

書評と感想

2023年に読んだ182冊から星5の13冊を紹介

このブログでは原則的に海外文学しか扱ってないが、実は日本文学やノンフィクションも陰でそこそこ読んでおり、それらを読書メーターに登録している。 今回、2023年に読んだすべての本から、最高点(星5)を付けた本をピックアップすることにした。読書の参考にしてもらえれば幸いである。

評価の目安は以下の通り。

  • ★★★★★---超面白い
  • ★★★★---面白い
  • ★★★---普通
  • ★★---厳しい
  • ★---超厳しい

 

120ページほどの短い本だが、石原慎太郎の歩みを丁寧に追っていて分かりやすい。キーワードは「成熟」になるだろう。本書において石原と対置されるのが江藤淳で、「成熟」は江藤の著作『成熟と喪失』【Amazon】を踏まえている。江藤を対置することで、石原の精神的軌跡にくっきり補助線を引いているところが見事だった。

暗い「戦後」から明るい「太陽」の時代へ。『太陽の季節』【Amazon】でデビューした石原は新しい時代の象徴だった。健康であることを重んじ、不健康な戦中派とは折り合いが悪い。それは石原に戦争経験が希薄であるからで、だからこそ新しい文学を生み出せたのだ。以降、彼は時代の寵児として戦後日本を代表する存在になる。

ところが、そんな彼も日章丸事件を題材にした『挑戦』【Amazon】が酷評されたことで右旋回を決定的なものにする。

「これしかない」と思って書き上げたあの小説が、「メロドラマ」と揶揄されてしまった。それはつまり、戦後の日本においては、世界で現実として起きていることが、どこまでも「虚構的」にしか受け止められず、消費されていくからだ、と石原は考えます。現実に起こっていることであるのに、そのリアリティを自分たちは十全に感じることができず、ただそういうことがあったという皮相的な理解で終わってしまう、というのです。(p.80)

人が転向するきっかけは得てして挫折や失望が多い。挫折することで、あるいは失望することで、それまで見ていた景色がガラリと変わってしまう。そのうえ、青年期から中年期に差し掛かり、いつまでも若者ヅラすることができなくなった。そろそろ新しい拠り所を獲得しなければならない。本書は石原の人間性に肉薄している。

石原は戦争経験が希薄であるがゆえにナショナリズムに回帰した。

ずっと時代の最前線を走ってきたからこそ、石原は「足掛かり」のなさや「実存」をつかめないという焦燥感を常に感じ続けてきました。高級車に乗っても満たされない、スポーツや冒険に価値を求めても、結局は肉体に裏切られてしまう。小説でも、求めるものは得られない。幾度もの挫折の末に、彼がたどり着いたのはナショナリズム。それも、戦争経験が希薄であるがゆえに、戦中のあり方を賞揚するような再帰的なあり方です。この意味で、石原は極めて戦後的な人物です。この新しさこそ、戦争に対して体験を通した嫌悪感を持っていた戦中派保守との断絶でした。(p.79)

青年期は戦争経験の希薄さが良い方向に作用したのに、中年期に入ってそれが悪い方向に作用する。時の流れは惨酷である。

 

90年代のオカルトブームを牽引した3人――スプーン曲げの清田益章、超常現象研究家の秋山眞人、ダウジングの堤裕司――を題材にしたルポルタージュ。ドキュメンタリー番組を制作する過程を描いている。

超能力は果たして実在するのか? たとえば、清田益章は森達也の前でスプーン曲げをやってみせる。しかし、トリックを使っているかどうかは分からない。清田は過去に番組の収録でトリックを使っていたことを暴かれていた。しかし、それは止むに止まれぬ事情であり、能力自体は本当にあるのだという。清田の語ることは荒唐無稽だ。宇宙人に会ったとか、火星にテレポーテーションしたとか、スプーン曲げ以外にも信じ難い逸話がある。率直に言って詐欺師に見えるが、こうもあっけらかんと語られるとワンチャンあるかもしれないと思える。超能力を信じるか信じないか。森達也は態度を決めかねていて、我々読者もその葛藤を追体験することになる。

超能力者に共通しているのは決定的瞬間を見せたがらないことだ。とにかく視線やカメラを忌避する。時にはそれがあるとできないと主張する。超能力にとって重要なのはメンタルであり、もっとも成功しやすいのは一人のときだと言う。見られていると難しい。まるで量子力学の世界である。メンタルを持ち出されたらこちらとしても文句を言えない。決定的瞬間を見せたがらない理屈としては完璧である。しかし、それが超能力の実在を疑わしいものにしているの事実で、信じるか信じないかの問題は迷宮に入り込むことになる。

本作は超能力者の人間性に迫ったドキュメントでもあり、森達也の葛藤を記録した物語でもあり、面白おかしく超能力を囃し立てるテレビ業界への告発文でもある。特に森達也の葛藤がいいスパイスになっていて、とても内容が濃かった。先行する書籍だと、立花隆『臨死体験』【Amazon】を連想させる。

 

昨今の反PC・反リベラルの流れに乗ったエッセイ。著者はニュースをよくチェックしているようで、取り上げている事象が幅広い。様々な時事問題を突破口にして、リベラルが取りこぼした弱者たちにスポットを当てている。多様性、フェミニズム、差別のない社会。「正しい」とされていることの裏側を丹念に描き出している。

リベラルが救うのは自分たちが共感した弱者だけで、そうでない人たちは阻害される。女性は可哀想だから助けよう。障害者は可哀想だから助けよう。マイノリティは可哀想だから助けよう。しかし、汚いおじさんは助けないし、無能な健常者も助けない。彼らはマジョリティであるうえ、見た目が気持ち悪くて共感できないから。

著者は次のように述べる。

今日の世間一般の健常者とは、往々にしてなんの特権も持っておらず、日々の暮らしをなんとかやりくりすることで精いっぱいの、単なる生活者にすぎない。吹けば飛ぶようなおぼつかない日々を生きている。それぞれを見れば一介の生活者にすぎないかれらは、しかし同時に「健常者」「一般人」という属性を有しているがゆえに「おのれの強者性・特権性に無自覚な強者」としてしばしば見なされる。現代社会の一般的な生活者たちは、属性の強さを過大評価されると同時に弱さを過小評価される、ねじれた状況に置かれている。(p.141)

現代社会で生きづらさを抱えているのは何の同情も得られない一般男性なのではないか。社会のレールから外れたら自己責任のレッテルを貼られる。だから失敗は許されない。女性のように下駄を履かせてもらえないし、障害者のように福祉の恩恵も受けられない。有能だろうが無能だろうが関係なく、弱肉強食の世界でサバイブすることを強いられる。そこはかくも残酷な能力主義の世界。能力のあるなしで天国か地獄かが決まってしまう。

また、著者は女性だけが解放されたと主張する。

男性の女性に対する不快/加害的/差別的/抑圧的なふるまいは「有害な男らしさ」と銘打たれて激しいバッシングを受けてきた。その一方で、女性が男性に対して行う不愉快で、暴力的で、加害的かつ無礼なふるまいは「有害な女らしさ」とはいわれなかった。咎められたり糾されたりするどころか「女性の解放」「ガールズ・エンパワメント」「わきまえない女」などのネーミングを与えられ、社会正義の具体的実践であるとして肯定的に評価されてきた。(p.143)

弱者と認定された人たち(女性)が実質的な強者になり、強者と認定された人たち(男性)が実質的な弱者になる。強者と認定された人たちは本当は「強者」ではなかった。このように現代は「弱者」よりも「強者」のほうが生きづらい。本書はリベラルの欺瞞を暴きつつ、社会から阻害されたマジョリティにスポットを当てたところが良かった。

本書の面白さは、『からくり民主主義』【Amazon】や『断片的なものの社会学』【Amazon】に通じるものがある。

 

ポジティブ心理学は表向き個人の「幸せ」を追求しているが、それが新自由主義にとって都合のいい労働者を生み出しているという。

幸せが新自由主義社会でこれほど存在感が増した理由のひとつは、幸せには、個人を至上の価値と定義し、集団や社会を個別の自発的な意志の集合と考える個人主義的価値観が沁み込んでいるからだ。より具体的には、幸せが新自由主義社会でここまで重きをなすようになったのは、それが個人主義を再活性化し、正当化し、再制度化するのにうってつけだと証明されたからだが、それは幸せが、中立的で権威ある科学的言説を用いてイデオロギーと無縁に見える言葉で語られるようになったことで可能になった。(pp.56-57)

「幸せ」は努力で勝ち取るもの。この世には社会ダーウィン主義的な出世競争があり、個人の努力は常に報われるから能力主義は機能する。そういう自己啓発的な考え方がポジティブ心理学の基盤にある。

ポジティブ心理学が説く「幸せ」は、企業のニーズに合わせて仕事と労働者という観念を作り直す。幸せな労働者は組織の変化に対して疑いを持つことが少ない。しかも、ストレスや不安に対する耐性が高く、より熱心に社風に合わせようとする。企業はこういう労働者を増やしたい。新自由主義の経営組織は労働者に自律性を求めるが、同時に自分たちの価値観に従ってほしいとも思っているのだ。また、彼らは労働者の自己管理を奨励する。個人が自分の人生を意志でコントロールできると錯覚させる。そうすることで労働者に自己責任の意識を刷り込む。

日本でポジティブ心理学は流行っているとは言えない。しかし、自己啓発書が説く「幸せ」はだいたい社会的な「成功」と結びついている。お前たちは「成功」すれば「幸せ」になれる。だから我々の規範に従って「成功」しろ。噛み砕けばそんな感じだろう。

良き個人とは良き労働者であり、良き労働者とは自律しつつも企業文化に染まる新自由主義の尖兵である。良き個人は過酷な出世競争を勝ち抜いて「成功」し、「幸せ」を掴み取らなければならない。本書はポジティブ心理学の胡散臭さを明らかにしたところが良かった。

 

タイトル通り、「ナショナリズムとジェンダー」を題材にした本である。戦時下における女性政策、および従軍慰安婦問題について、フェミニストの考え方を学ぶことができる。

日本政府は総力戦の中で女性の協力が不可欠と判断した。そこで「女性の国民化」を推進する。面白いのは、戦前のフェミニストがそれに加担したことだろう。市川房枝、平塚らいてう、高群逸枝といった女性知識人が超国家主義を積極的に推進している。超国家主義の社会において、夫は「軍神」になり、妻は「靖国の母」になるのだった。

そして、当時の女性は差異か平等かのディレンマに直面している。

  • 差異……「女らしさ」の規範を受け入れなければならない。
  • 平等……公的領域が男性性を基準に定義されているため、「二流の労働力」「二流の戦士」に甘んじなければならない。

これは現代にも通じる問題で、女性解放の難しさが明快に示されている。

従軍慰安婦問題について。「売春」は女の問題でなく、「買春」という「男の問題」であると喝破する。

そして、「売春」パラダイムについて次のように述べる。

「売春」パラダイムは、パラダイムそれ自体のなかに女性の「主体性」を含意することで、男性を免責する見方である。「売春する」女性はそのことでスティグマ化される。「醜業」に従事する女性は、存在自体が汚れているとされるのである。「売春」パラダイムは、本人の「意思」を問題にする点で一見女性の自己決定権を認めているかのように見えるが、その実、「売春婦」とそれ以外の女性とのあいだに分断を持ち込む「性の二重基準」を支える点で、家父長制コードのヴァージョンだと言える。この「売春」パラダイムの差別性は、多くの元日本人「慰安婦」から声を奪ってきた。(p.96)

自己決定権については現代のツイフェミも問題視しているし、「売春する」女性のスティグマ化は現代のセックスワーカーにまで受け継がれている。この問題もやはりアクチュアルである。

他にも、「新しい歴史教科書をつくる会」を批判したり、フェミニズムの目的はカテゴリーの相対化と主張したり、フェミニストの考え方が分かって参考になった。

なお、『生き延びるための思想 新版』【Amazon】は本書の姉妹編である。こちらは人権や市民権について考察しているので併せて読むといいだろう。

 

日本の外交官によるウィンストン・チャーチルの評伝。

単純な歴史的事実だったらWikipediaを読めば事足りる。しかし、物事の細部やロジックを知りたいなら本を読むしかない。著者は外交官だけあって人物評に安定感があり、チャーチルの長所と短所を公平に挙げている。おかげで彼の輪郭がくっきりと浮かび上がった。

チャーチルがホイッグ史観の持ち主という点が興味深い。彼は政治家修行のために読書に勤しんだが、どうやらギボンやマコーリーの歴史書に影響を受けたようである。

歴史を偉人による行為の帰結と見る認識は、「ホイッグ史観」の一つの特徴であり、ここでもマコーリーの影響が感じられるのであるが、チャーチルの場合には、こうした歴史認識が持って生まれた人一倍の野心と結びつくことによって、古今の政治家の中でも飛び抜けたエネルギーを生み出すのである。(p.75)

こういう歴史観の持ち主だから戦争観も危うくて、戦闘の雌雄が天才的指揮官の直感的判断によって決すると考えている。まるで『銀河英雄伝説』【Amazon】の世界である。

とはいえ、チャーチルの決断力はまさに偉人だ。

(……)四〇年八月、チャーチルは英国が当時保有していた戦車のほぼ半数の相当する百五十両余りをカイロの中東軍に送ることを決断する。この決断の裏には、守り一辺倒の姿勢のおかげで身の破滅を招いたフランスの轍は踏むまいとの強い決意があった。さらに、チャーチルは、鉄壁とも思える枢軸国の大陸支配の中で唯一の弱点があるとすれば、ムッソリーニが受け持つべき地中海方面にあることを本能的に嗅ぎ取っていた。(p.263)

大胆な決断ではあるが、著者の評価は芳しくない。そのロジックをここでまとめるのは長くなるので困難だが、本書では言葉を尽くして論じているので分かりやすい。チャーチルの熱狂的支持者に冷や水を浴びせている。

また、1945年7月の総選挙で保守党が労働党に敗北したが、その説明もなるほどと思わせるものがあった。やはり物事の細部やロジックを知りたいなら本を読むしかない。

 

2011年の本。主にAVライターとして活躍した著者の自伝である。

著者は本書出版の5年後に事故死した。享年40歳。その昔、はてなダイアリーでも書いていた人なので知っている人も多いだろう。

本書はサブカル女の自伝でありながら、フェミニズム的な問題意識を内包していて充実した読み物になっている。著者は学生時代から女をこじらせていた。女であることに自信がなかった。自己肯定感が欠如しているがゆえに、同じ女でありながら男から欲情されるAV女優に惹かれている。

その一方、女であることを特別視されているのも嫌がっていた。ライターになって求められた価値が「女」であることに落胆している。

結局、仕事をもらえるのは「女」。裸にならなくても、私は「女」の見た目で、「女」という性別で、仕事をもらっている。女として仕事をしたいなんて思ったことは一度もない。無記名であれ記名であれ、自分の技量、自分の思うことで書きたいのに、自分の感じることや書くことすべてが「女性の視点」というひとことで済まされることに強い違和感がありました。違和感があっても、いやだと強く感じていても、自分が仕事をもらえるのは「女」だからなのだという事実は、罪悪感のように重く心にのしかかってきました。(p.120)

著者は自分が「女」であることを否定しないが、他人からは一個人として、「私」として評価されたかった。女だから下駄を履かされていると思われたくなかった。ここにフェミニズム的な問題意識が見て取れよう。どこまでもつきまとってくる女性性の根源にあるのは、男目線を内面化したことにあった。現代社会においては女性は「見られる性」であり、多くの女性は当然のものとしてそれを受け入れている。

男目線を内面化したことがすべての始まりと言っていいかもしれません。私の女としての強烈なコンプレックスは、男目線を内面化しなければ生まれ得ないものだったと思います。男目線で自分を鑑定し、あまりにも理想の女とかけ離れているので否定するということの積み重ねで、私は女としての自分に自信が持てなくなりました。(p.167)

「こじらせ女子」の病理は男社会の病理と言い換えることができる。フェミニズムが流行っている今こそ読まれるべき本だろう。

 

1948年の本。

全体的に親ソ的で、レーニンやスターリンを褒めちぎったり、民衆の愛国心を賞賛したりしているのが気になるが、ロシア革命の推移とそれを支えた思想の解説をしているところは参考になる。

ツァーリズムもロシア革命もすべてロシアの後進性から始まっている。著者がそれを前提に論述を進めていくところがスリリングだ。

ロシアは東方からはアジアの剽悍な遊牧民族の侵略にさらされており、西方からは西ヨーロッパ先進文明の脅威を受けている。ここにヨーロッパの近代技術をもって武装した、アジア的な専制主義、ツァーリズムが誕生すべき基盤がある。

西ヨーロッパはローマ帝国の遺産を継承し、ギリシア・ローマの古代文明と直結している。それに対してロシアは古代文明からほとんど何も相続しなかった。文芸復興にも関与しなかったため、人文主義の思想も根を下ろしてない。だからアジア的暴君ツァーリの専制を甘受した。当然、宗教改革とも無縁である。後に革命が起きても民主主義の社会にはならなかった。それもロシアの後進性で説明できる。

レーニンの前にナロードニキが存在していた。しかし、農民重視のナロードニキでは革命は不可能だった。レーニンはナロードニキの革命性を継承し、実用的なものへと発展させている。

レーニンはまず第一段階に労働者と農民との同盟によるツァーリズム打倒、第ニ段階にプロレタリア独裁による社会主義革命を企図した。農民は一揆を起こすことはできても革命を遂行する能力は持ってない。プロレタリアートがこれを指導する必要がある。そういう道筋を立てたところが彼の偉大さだった。

他にもトロツキーの思想の独自性と彼が後継者になれなかった理由が分かりやすく説明されていて面白かった。古い本ではあるが、ロシア革命の入門書にぴったりである。

 

立憲君主として受動的なイメージだった昭和天皇が、実は戦前も戦後も能動的に政治活動していたことが明らかにされている。とても刺激的で面白い。

敗戦後、昭和天皇はとにかく天皇制の維持に心を砕いていた。特に共産主義を脅威に感じていたようで、国体を守るには米軍に依存するしかないと思っていたようだ。だから安保体制の成立時には、駆け引きをしようとした吉田茂の頭越しに二重外交をして不利な条件を飲んでいる。基地提供と米軍駐留は、天皇制の死守を図る昭和天皇にとって絶対条件だったのだ。昭和天皇は何より革命と戦争裁判を恐れている。昭和天皇はニ・二六事件以来、とにかく内乱を警戒していた。かの有名な『昭和天皇独白録』【Amazon】も、東京裁判を視野に入れた保身の書である。昭和天皇は自分が戦争責任を負う気はさらさらなかった。こういったところが人間臭くて好感が持てる。

昭和天皇にとって東京裁判と安保体制が天皇制を防衛する最大の盾だったが、何も知らない右派が東京裁判史観を否定しようと躍起になっているのだから笑える。せっかく東条英機を生贄にして断罪を免れたのに、その東条を靖国神社に合祀しているのだから愚かだ。おかげで昭和天皇は参拝できなくなった。右派は昭和天皇の御心を推し量れなかったのである。これは万死に値する。

また、天皇制はマッカーサーによる憲法の「押し付け」によって存続することができた。当初、憲法改正は極東委員会が担当する予定だったが、極東委員会には天皇制に否定的な国が参加する予定だった。それに危機感を抱いたマッカーサーが、極東委員会が成立する前に突貫工事で日本国憲法を成立させたのである。おかげで天皇制は守られた。戦後の歴代天皇が護憲派なのも頷ける話である。

本書は『昭和天皇の終戦史』【Amazon】と併せて読むと面白さが増すだろう。人間・昭和天皇をたっぷり堪能できる。

 

本作については別途記事に書いた。詳しくは以下のリンクを参照のこと。手法とテーマが噛み合った素晴らしい小説である。

pulp-literature.hatenablog.com

 

 

原題はPowers and Thrones

有名人が織りなす史実だけでなく、修道院や騎士、大学、築城など各トピックを解説している。範囲は西ローマ帝国の滅亡から16世紀の宗教改革まで。中世ヨーロッパに対して多角的にアプローチしている。本書はそこそこ広くそこそこ深い総合的な入門書といったところだ。当時の人たちの技術や生活が分かるところが面白い。本書を入口にして各専門書に進むのがいいだろう。

たとえば、修道院の解説はこんな感じ。

中世盛期の修道院は、現代において進歩的福祉国家の基本とされるほとんどの機能を担っていた。修道院の主な機能は敬虔な信者のための静修施設だが、同時に教養、教育、人々の受け入れ、医療の分野でも中心的役割を引き受け、ツーリストインフォメーション的な機能を持ち、高齢者の社会的サポートや霊的助言も担っていた。その結果、つましい隠棲の場という本来の性質から遠ざかり、外界と緊密な関係を結んで利益を手にしていた。(上 p.261)

また、築城についても詳しい。

築城は中世盛期の発明物ではなく、鉄器時代の丘上の要塞にさかのぼる。もともとは高台につくられた軍事拠点で、土塁と木製の防御施設で守られていた。ローマ時代の要塞(カストラ)は石の基礎で、たいてい木製のとがり杭の柵と付属建物が立ち、軍事施設の原型をなしていた。ウマイヤ朝イスラム世界では伝統的に軍事施設が発展し、中東では軍事機能、農舎、浴場、モスクなどのより贅沢な宮殿設備が組み合わされた砂漠の城(クスール)が盛んに建てられた。逆に西ヨーロッパの要塞は第一千年紀を通して比較的原始的レベルにとどまり、教会建設には莫大な費用と労働力が割かれたが、軍事建築物では大きな遅れを取っていた。

だが一〇〇〇年頃、西ヨーロッパで築城革命が起こる。何がその原動力となったのか、歴史家たちは長年頭を悩ませてきたが、カロリング朝崩壊後のヨーロッパの不安定さ、キリスト教徒王国を脅かすヴァイキング、マジャル人、イベリア半島のイスラム教徒、そしてフランク様式の騎士の重要性の高まり、騎士の任務遂行に不可欠な基地の需要などが挙げられるだろう。西ヨーロッパの築城技術の進歩は多分にノルマン人に負っており、彼らはノルマンディーのみならずイングランド、シチリア、十字軍国家でも城を建設した。彼らは早くからモット・アンド・ベーリーという城塞様式を採用した。モット・アンド・ベーリーでは、モットと呼ばれる盛り土がなされ、天守と塔で守られる。初期の建造物は木製で、モット(と郭内)を取り巻く付属建築物は、柵や掘割で保護されていた。これが一〇世紀末から一一世紀後半にかけての最先端の城塞様式である。

だが一二世紀になる頃には、技師たちは重い木材を使ったモット・アンド・ベーリーから、石を使ったより大きく精巧な城塞様式へとスライドしていった。石は扱いが難しく、高価で、労働力を集中的に投入しなければならいが、石でできた要塞は遥かに堅固で、ここを拠点にすれば何キロメートルにもわたって全方向に軍事力や政治力を行使できる。当初、こうした石造りの城砦はモット・アンド・ベーリー様式を真似ていたが、一二世紀に「多重環状」要塞が登場する。これはインナー郭内とアウター郭内、二つ以上の城塞と城塞に点在する防御塔、いくつもの詰所や跳ね橋、一つないしは二重の濠を備えた複雑かつ広がりを持った構造で、たいていもっとも安全な場所に豪華な居住区域が設けられていた。(下 pp.141-142)

他にも騎士や大学、商業についての解説が参考になった。思うに、こういうのは高校世界史レベルでは分からないから貴重だ。歴史の流れをなぞりつつ、当時存在した幅広い事物を掘り下げる。読者としても知的好奇心が刺激される。

また、最近の歴史書は気候変動と絡めて歴史の変化を解説してくれるから興味深い。世界史も進化していることが分かる。

 

原書は2013年出版。ベトナム戦争における米軍の残虐行為がこれでもかと書かれている。とても迫力のある本だった。

ベトナム戦争と言えばソンミ村虐殺事件が有名だが、あれは特別な事件ではなく、同種のことが日常茶飯事になっていたという。本書ではその原因となった米軍の作戦を解説しつつ、具体的な虐殺行為を紹介している。

ベトナム戦争ではボディカウントが戦績を測るノルマとされた。これが多い部隊は優遇され、少ない部隊は冷遇された。だから兵士たちは民間人を殺してボディカウントを増やした。そもそも北ベトナムはゲリラ戦を仕掛けてきたから、敵兵と民間人を容易に判別できない。米軍は動くものすべてを殺す方針をとった。女子供も含めて皆殺しにしている。民間人を怖がらせて逃げるように仕向け、逃げた彼らを標的にして射殺していたのだ。また、米軍は自由射撃ゾーンというエリアを設け、定義上そこには民間人がいないことにして動くものを標的にしている。そこでも女子供を容赦なく射殺した。ソンミ村虐殺事件のようなことは珍しくなかったのである。

残虐行為の例を引用しよう。

(……)一九六七年一〇月、農村部で起きた銃撃戦のあと、陸軍三五歩兵連隊第一大隊B中隊の隊員たちは、武器を持たない少年に出会った。「誰かが山の上でその子をつかまえて部隊のところまでつれてきました。すると中尉が、こいつを殺したい者、撃ち殺したい者はいるかと尋ねたのです」衛生兵のジェイミー・ヘンリーはのちに陸軍の捜査官にこう証言した。通信兵ひとりと、別の衛生兵が名乗りをあげた。ヘンリーによると、この通信兵は「少年の腹を蹴り、衛生兵がその子を岩陰につれていきました。銃声が続けさまに聞こえて、やがてオートマチックピストルの弾倉が完全に空になったのがわかりました」その子供は"戦闘により殺害"された敵に数えられた。(pp.147-148)

また、女性への性暴力や捕虜への虐待も当たり前のように行われており、本書を読むと気が滅入ってくる。西側の代表がこの有様では救いようがない。しかも、第二次世界大戦後の出来事だから驚きだ。戦争がどれだけ人を残酷にするか思い知らされた。

 

A4版のムック。オールカラー。図解が豊富である。Newtonの別冊だけあって教科書に使えそうな科学的な内容だった。人生の下り坂にどう対処するか。心身両面から総合的にアプローチしている。

中年になったら誰でも食事・運動・睡眠について気をつけているだろうが、本書はそれだけでは掬いきれない部分も掬っていて有意義だった。

たとえば、テストステロンの記述。中年になるとテストステロンが減る。テストステロンが減るとがんや生活習慣病に罹りやすくなる。予防するには、やりがいや達成感のある仕事や趣味に没頭することや筋肉を使うことが重要だという。というのも、仕事で達成感が感じられないとテストステロンの働きが弱まるから。テストステロンは意外と重要だった。中年期が働き盛りと呼ばれるのも分かるような気がする。

中年の危機はアイデンティティの危機だという。つまり、これまでと同じ生き方でよいのかと悩む。アイデンティティの再形成は僕も日々行っていることで、仕事やプライベートのことを日記に書いて振り返っている。そうすることで今後の人生の指針を決めているのだ。まだ決めきれてない部分もあるが、残りの人生をどう生きるか、そのヴィジョンは薄っすらと見えてきた。心の発達は生涯にわたって続くらしいので、これからも適宜悩んでいこうと思う。

中年期は3メッツ以上の強度の身体活動を毎日60分する必要がある。普通の歩行が3.0メッツ。自重の筋トレが3.5メッツ。健康を維持するのも大変だ。

 

2023年はVODで映画を見た年だった。サブスクだからたくさん見ないと損をするような気がしたのである。その結果、本は後回しになって読んだ数が例年よりも少なくなった。フィクションに至ってはほぼ読んでない。いい加減、サブスクを解約したほうがいいような気がした。年間契約なので来年の9月まではこの調子である。映画は映画で面白いから満足しているが、一通り名作を見たら卒業してもいいとは思っている。読書の時間が取れないのがどうにもやりきれない。

今年放送のアニメで面白かったのは、『お兄ちゃんはおしまい!』、『【推しの子】』、『スキップとローファー』、『アイドルマスター シンデレラガールズ U149』、『葬送のフリーレン』の5作だった。『葬送のフリーレン』は現在放送中の秋アニメだが、今年のベストは間違いなくこれである。今年はアニメについてあまりブログに書いてない(『ブルーロック』『とんでもスキルで異世界放浪メシ』くらい)。昔ほど情熱が持てなくなってしまった。ただ、アニメは最新の作品が常に面白いので、なるべく継続的に新作を追いかけていきたい。アニメの進化を見守っていきたいと思う。

新型コロナが流行った2020年から健康を意識するようになり、毎日1時間散歩をするようになった。健康関連の本もだいぶ読んでいる。食事にも気をつけている。著名人が若くして亡くなると、自分も長生きできないのではないかと不安になる。幸いなことに健康診断では何も引っ掛かってない。せいぜい体力が落ちたのを自覚したくらいである。まだまだやりたいことはたくさんあるので健康の維持には気を配りたい。

Kindleでだいぶ漫画を買っているが積ん読である。なぜ漫画を買ってしまうのかというと、Kindleはポイント還元や割引など頻繁にセールするからである。おかげで千冊以上も買ってしまった。これをどうにかするのが来年以降の課題になる。

 

以下、年末特別記事の過去ログ。

 

pulp-literature.hatenablog.com

 

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