海外文学読書録

書評と感想

レティシア・コロンバニ『彼女たちの部屋』(2019)

彼女たちの部屋

彼女たちの部屋

 

★★★

パリ。弁護士のソレーヌは依頼人を自殺で亡くして燃え尽き症候群になる。彼女は療養の一環で女性会館の代書人をするのだった。女性会館には貧困や暴力、差別などに晒された女性たちが居住しており、それぞれ複雑な事情を抱えている。当初は慣れなかったソレーヌもそこに溶け込んでいくが……。

自分の道、そう、でもどんな? 四十歳にして、ソレースは自分が何者なのか確信がもてない。精神科医にボランティアは試した、向いていないと言おう。別のアドヴァイスをもらおう――それと錠剤も。(p.57)

現代のパリとおよそ100年前のパリ、2つの物語が交互に展開する。この2つがどう繋がるか、という点ではあまり意外性がないものの、時代を越えて世界を良くしようとする2人の奮闘ぶりは特筆すべだろう。現代と100年前では社会のルールが違うし、流通しているテクノロジーも違う。しかし、人間の善性は着実に受け継がれていて、恵まれない女性たちの福祉に貢献している。さすがフランスと言うべきか、この分野では日本よりもだいぶ進んでいることが窺える。

女性会館は合計400人以上が居住するバベルの塔だ。そこにはありとあらゆる宗教・言語・伝統が入り混じっている。住人に共通しているのはただ「女性」であることだけ。しかも、それはジェンダーとしての女性ではなく、生物学的な意味での女性である。要はXX染色体の持ち主だ。ここで僕は疑問に思う。トランスジェンダーの女性(MTF)はどうなるのだろう、と。こんなことを思ったのも、最近、作家のJ・K・ローリングトランスジェンダーをめぐる発言で物議を醸したからだ。彼女は生物学としての女性しか女性と認めない立場を表明したのである。女性、それは「生理がある人々」。この思想的立場はターフ(TERF)と呼ばれるもので、現在では排外主義の一派と目されている。一部のフェミニストが、自らの女性性を盾にトランスジェンダーを差別しているわけだ。現代のフェミニズムジェンダーの境界を壊そうと躍起になっている反面、自分たちの特権(弱者性・被害者性)を守ろうと過剰に男性を攻撃している。そして、ターフの矛先は同じ弱者であるトランスジェンダーに向いている。ターフはトランスジェンダーに対し、「お前たちは弱者ポジションを取るな」と威嚇しているのだ。弱者が同じ弱者に仕掛ける縄張り争い。現代のフェミニズムはそんな矛盾に直面しており、それをどう克服するかが課題になっている。

とは言っても、世界的に女性が抑圧されていることは確かで、たとえば本作には次のような人物が出てくる。

サルマというアラビア語ファーストネームは「純真、すこやか」という意味だ。この名前が誇らしいと言う。故国では女性が個人としてのアイデンティティをいかに奪われているか話してくれる。アフガニスタン社会では、身内でない者が女性のファーストネームを尋ねることは許されない。女は男の名前で呼ばれる。誰かれ「の妻」、「の娘」、「の姉妹」。はっきりしない場合は「おばさん」。公の場でアフガニスタン女性は個人として存在しない。このような伝統が根づよいのはとりわけ地方で、国の人口の四分の三が住んでいる。各地で女性が自分たちのアイデンティティを認めさせようと奮闘している。生きる権利を要求している。

ここでは、サルマは誰の娘でも姉妹でもない。彼女はたんに彼女、サルマだ。ひとりで立ち、それに満足している。受け入れてくれたこの国に感謝している。(p.115)

こういうのを読むと、やはり男女平等は実現させなければならないと思う。ただ、個人的にはフェミニズムは支持する反面、フェミニストは支持しないという立場なので、なかなか複雑なのである。フェミニズムという理念は正しい。しかし、それを運用しようとするフェミニストは信用できない。これはかつてのマルクス主義みたいなもので、あれも理念は立派だったのに、それを適切に運用できなくて結局ぽしゃったのだった。人間というものの不完全さを痛感する。

主人公のソレーヌは、代筆をすることで他人の体験があたかも自分のことのように流れてくる感覚を経験をする。それは本書を読んでいる読者と同じで、我々も他人の経験を我がことのように感じながら読んでいる。こういう疑似体験も読書の醍醐味のひとつではないかと思った。