海外文学読書録

書評と感想

蔵原惟繕『俺は待ってるぜ』(1957/日)

★★★★

元ボクサーの島木譲次(石原裕次郎)は波止場の近くでレストランを経営していた。彼には喧嘩で人を殺した過去がある。譲次の兄はブラジルにおり、一年後には譲次を呼んでくれる約束だった。約束の日は近い。そんなある日、譲次は埠頭で女を助ける。彼女の名前は早枝子(北原三枝)。キャバレーの歌手だった。早枝子はあることが原因で行き場を失っている。

石原慎太郎脚本。

夜のシーンを多めにした撮影と二人の男女の孤独な雰囲気がすごかった。こういうのをムードアクションと呼ぶらしい。ぐぐってもムードアクションの意味が分からなかったのでBardGoogleの対話型AI)に投げてみた。そうしたらそれらしい答えが返ってきた。どうやら娯楽性重視の派手なアクションシーンよりも、ストーリーや登場人物の心情に重きを置いたリアリティのある作品ということらしい。主人公は孤独でハードボイルド的な要素を強く含んでいるようだ。演出も陰鬱な雰囲気を出すために暗い色調を用いるという。そういう意味で本作はムードアクションのお手本だった。本作を見て石原裕次郎のことを初めて格好いいと思ったので、映画としては成功の部類に入る。日活ムードアクションを体系的に追ってみたくなった。

本作は冒頭からよく出来ている。カメラは顔が分からない距離から夜道を歩く譲次を追う。けっこうな距離を歩いている。そして、埠頭で早枝子と出会う。ここでカメラは2人の顔を映す。譲次は物腰が柔らかく、やさしい口調で早枝子に話しかける。この時点で早枝子がなぜ夜の埠頭に突っ立っていたのかは分からないが、何か訳ありなことは確かだ。石原裕次郎が歌うしんみりした歌謡曲が哀愁を引き立てている。その後、譲次は早枝子を保護するために自身が経営するレストランに連れて行く。相変わらず話しているのは譲次だけだ。濡れた上着を乾かして飲食物を出してやり、ようやく早枝子が重い口を開く。ここまでのミステリアスな流れが最高だった。譲次の穏やかな物腰に引き付けられる。

とはいえ、譲次は元ボクサーであり、喧嘩で人を殺したことがあるくらい暴力に秀でている。彼は暴力を抑制していた。のみならず、過去の殺人が原因で厭世的になっており、兄のいるブラジルに移住したいと思っている。彼が醸し出す孤独な雰囲気は強烈だ。一方で早枝子も問題を抱えている。彼女はキャバレーの歌手だが現在は歌えない。譲次にも歌声を聞かせないようにしている。早枝子は早枝子で孤独を抱えていた。譲次も早枝子も互いに傷をさらけ出すものの、二人の距離は一向に縮まらない。孤独な男女が付かず離れずの距離で立っている。こういうところがハードボイルドっぽい。夜のしじまに哀愁が漂っている。

物静かな譲次もある出来事がきっかけで暴力を解禁する。見所は柴田・兄(二谷英明)とのタイマンだろう。柴田・兄も譲次と同じく元ボクサーである。現役時代はフェザー級で鳴らしたという。現在はキャバレーのオーナーであり、ならず者を何人も引き連れていた。二人のタイマンはキャバレーでの殴り合いである。ここはカメラワークが凝っていて、離れた場所から望遠気味に撮った後、接近して殴り合いを映すところが良かった。原始的な暴力衝動を上手く表現している。これは殴り合いだからこそ為せる技だろう。男性性を競う喧嘩とはこういうものだと感じ入る。

本作は蔵原惟繕を履修するために見たが、石原裕次郎が思いのほか格好良かったのが収穫だった。さすが国民的スターである。

2023年12月28日追記。

渡辺武信『日活アクションの華麗な世界』【Amazon】にムードアクションという用語の解説があった。

"ムード・アクション"とは、もともと裕次郎の主演映画の中でメロドラマ的要素の強い作品に製作者側がつけたキャッチフレーズに過ぎない。この呼び名が最初に用いられたのは64年の裕次郎とルリ子の共演作「夕陽の丘」であり、その後、一連の"裕次郎+ルリ子映画"の呼称として定着した。しかし歴史的に回顧してみるとメロドラマとアクションの融合は、裕次郎主演作の一つの流れとして「夕陽の丘」以前から始まっており、"ムード・アクション"という呼称はそうした一連の作品を一括して名づけるのにふさわしい。

リアルタイムで見ていた人の解説なので間違いないだろう。すっきりした。