海外文学読書録

書評と感想

エミール・クストリッツァ『黒猫・白猫』(1998/仏=独=ユーゴスラビア)

黒猫・白猫(字幕版)

黒猫・白猫(字幕版)

  • バイラム・セヴェルジャン
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★★★

ドナウ川のほとり。マトゥコ(バイラム・セヴェルジャン)には父・ザーリェ(ザビット・メフメトフスキー)と息子・ザーレ(フロリアン・アイディーニ)がいるが、放蕩癖のせいで父からは見捨てられている。マトゥコはある計画の失敗によってギャングのダダン(スルジャン・トドロヴィッチ)から多大な借金を負う。借金を棒引きしてもらうため、息子・ザーレをダダンの妹・アフロディタ(サリア・イブライモヴァ)と結婚させることになった。ザーレもアフロディタも嫌がっている。

全体的にテンションが高くてついて行けないところがあった。思えば、尺の大半がお祭り騒ぎだったような気がする。普段の生活も騒がしければ、結婚式はそれ以上に祝祭的だ。アヒル、ヤギ、ブタなど動物が多数登場し、楽団が陽気に音楽を演奏する。村にはなぜか遊園地のような回転遊具があった。ドナウ川では現地民だか観光客だか分からない人たちが呑気に遊泳している。そして、主要人物もとにかく濃い。マトゥコはお調子者の駄目オヤジだし、ダダンはヤク中のせいか何をするのか分からない衝動性がある。ザーリェは一度死んだのに蘇るし、ゴッドファーザーのグルカ(サブリ・スレジマニ)も癖のあるお爺ちゃんだ。総じてオフビートな感じが半端ない。極論を言えば、この村はガルシア=マルケスからマジックリアリズムを抜いたような村なのだ。何をして食っているのかは分からないが、とにかく生活は成り立っている。毎日毎日お祭り騒ぎしている。東欧と南米は地理的に離れているものの、気質的には似た部分がある。まるで世界の辺境を見ているような気分だった。

村は電気も通っているのか怪しい農村共同体だが、いい加減に生きても許されるような鷹揚さがあり、そこは素直に羨ましいと思う。日本より貧困なのに日本より生活に幅があるというか。つまり、自由がある。日本は学校を卒業したら正社員として就職しないと生活が成り立たない。結婚もできないし、子供を持つこともできない。フリーターや派遣社員のままだと将来的には人生が詰んでしまう。特別な才能がない限りはレールに乗った人生を求められるのだ。先進国なのにこんな窮屈な生き方を強いられるなんてどういうことだろう。本作の村は見るからに貧しいが、少なくとも自由はある。レールに乗らなくてもとりあえずは生きていける。人によってはユートピアのように映るのではないか。毎日がお祭り騒ぎで、こういういい加減な生活を送るのも悪くない。農村共同体こそが人間らしい生き方のできる唯一の場とすら思えてくる。

面白いのはこの村に資本主義の工業製品が持ち込まれるところだ。ドラム式洗濯機やポータブルレコードプレーヤー、ハンディクリーナーなど家電製品が目白押しである。そして、電気も通っているのか怪しいのに部屋にテレビのある家庭もあった。ドナウ川では商船が通りかかり、村人はそこから物品を買い込んでいる。牧歌的な生活とは不釣り合いな資本主義の工業製品たち。多数の動物と多数のモノに溢れたごちゃごちゃした世界観がたまらない。人々も場所もとにかく賑やかだった。

もっとも印象的だったシーンは、ザーレとイダ(ブランカ・カティク)がひまわり畑でイチャイチャするシーン。ロケーションとシチュエーションが抜群に噛み合っている。よくこんな場所を見つけたものだと感心した。