海外文学読書録

書評と感想

ミゲル・デリーベス『赤い紙』(1959)

★★★

スペインの地方都市。70歳になって市役所を定年退職したエロイ老人は、妻とは既に死別しており、話し相手と言えば女中のデシーくらいしかいなかった。エロイ老人は写真が趣味で、地元の協会に所属している。一方、デシーは田舎出身で、来た当初は文字もろくに読めなかった。エロイ老人はデシーに昔話をしつつ、単調な老後を過ごす。

エロイ老人が生涯に何らかの主役を務めるのは今夜で三度目だった。初めてのときは自分の結婚式、二度目は一九三三年頃、写真協会に入会したときのことだった。その三年前のある日、友達のペピン・バスケスが定年退職は死への待合室だ、とぞっとするようなことを言った。そのくせペピン・バスケスは待合室には入らず、一九三三年にさっさとあの世へ旅立ってしまった。(p.3)

人生の待合室を描いた小説で、自分の老後について少し考えてしまった。エロイ老人は妻には先立たれ、息子夫婦とは別居し、話し相手と言えば若い女中だけ。彼は写真くらいしか目立った趣味のない孤独な老人だ。ひたすら無為の日々を送りながら、人生の待合室で死を待っている。この生活は今風に言えばスローライフと言えそうだけど、一般的に歳をとればとるほど時間の流れが早く感じるので、そんな生活を送っている暇なんてないと思う。僕だったら悔いのないようひたすらスケジュールを詰め込むだろう。といっても、僕のライフワークは読書とアニメ鑑賞くらいなので、持てる時間をそれらに注ぎ込むくらい。これはこれで周囲から無為な生活だと思われそうだ。ともあれ、どういう老後を過ごすかは現代人の懸案事項であり、若い僕にはまだまだ実感が持てない。たとえば、70歳になったとき、気力と体力はどうなっているのか。今みたいにちゃんと本を読めるだろうか。アニメを飽きずに楽しめるだろうか。理想的なおたくライフを送れるかはまったく不透明だ。だからこそ不安を感じる。

終盤でエロイ老人は、マドリッドで公証人をしている息子に会いに行く。息子は40代でまさに働き盛り。彼は競争社会を生きており、隠居生活をしているエロイ老人とは対照的に描かれている。そもそも老人は公務員で、息子は民間職だから、現役時代でも価値観は違っていた。方や競争しなくていい職種、方や競争しなければならない職種。お互い分かり会えるはずないのである。親子と言っても30歳近く歳が離れているし、従事している職業だってまるで違う。2人の間にはジェネレーションギャップが生まれており、そういう状況を客観的に見れたのは良かった。

女中のデシーが語る大洪水のエピソードが面白い。洪水で家畜が流されていくなか、村の白痴が「雨を降らせ給え、降らせ給え、洞窟の聖母様!」と叫ぶ。村人たちはそれに腹を立てるも、白痴の発作は収まらない。そして、遂に村の狐捕りがぶち切れ、刺又を白痴の腹に突き刺して殺害する。狐捕りは未だに牢屋の中だ。デシーによると、この事件は1952年に起きたという。その民話的な雰囲気はまるで前近代のようで、時代と乖離した感覚が良かった。こういうのは同時代の英米文学では味わえないと思う。