海外文学読書録

書評と感想

ベルトルト・ブレヒト『暦物語』(1949)

★★★

短編集。「アウグスブルクの白墨の輪」、「ユダヤ人相手の娼婦、マリー・サンダースのバラード」、「2人の息子」、「仏陀が語る、燃えている家のたとえ」、「実験」、「ウルム 1592年」、「異端者の外套」、「子どもの十字軍 1939年」、「カエサルカエサルの軍団兵」、「クヤン=ブラクの絨毯職工たちがレーニンを記念する」、「ラ・シオタの兵士」、「本を読んだ労働者が質問した」、「怪我をしたソクラテス」、「兄は飛行士だった」、「分不相応な老婦人」、「亡命の途中に生まれた『老子道徳経』の伝説」、「コイナーさんの物語」の17編。

神は存在するのでしょうか、とたずねられて、コイナーさんは言った。「その質問に対する答えによってね、君の態度が変わりそうかどうか、考えてみたらどうかな。変わりそうでないなら、そんな質問は捨てちゃえばいい。変わりそうならね、せいぜい私はこんな助言しかできないけど。つまりさ、君はすでに、ぼくには神が必要なんです、と決めてるんだよ」(Kindleの位置No.1924-1927)

以下、各短編について。

アウグスブルクの白墨の輪」。三十年戦争。皇帝軍がプロテスタントが経営する皮革工場に押し入っていた。そこの主人は兵士によって殺されるも、女中のアンナが子供を連れて逃げ出す。アンナはアウグスブルクにいる妻に子供を届けたが受け取りを拒否された。アンナは自分の手で子供を育てることに。地域社会に溶け込むために偽装結婚までするアンナが強い。それだけ子供のことが大切なのだろう。そして、ラストの裁判は有名なやつだった。元ネタは中国の戯曲『灰闌記』のようで。

ユダヤ人相手の娼婦、マリー・サンダースのバラード」。詩。ニュルンベルクユダヤ人と非ユダヤ人との結婚または婚外セックスを禁じる法律が作られた。それに違反したマリー・サンダースは車で町を引き回されることに。サビの部分で隠喩が繰り返されるのだけど、それが来たるべきときが来る切迫感を表していて胸にしみた。初出が1937年だから戦争前夜である。忖度なしのプロテストといった趣だった。

「2人の息子」。1945年。テューリンンゲン州の農婦が善意から若いロシア人捕虜に便宜をはかる。それがきっかけでロシア人の脱走計画に巻き込まれるのだった。やがて東部戦線から親衛隊の息子が帰ってきて……。こういう戦争だと善悪の判断がとても難しいと思う。ドイツ人だったら普通はドイツ人の味方をするだろうし。でも、本作の農婦はそれを超えた判断ができた。どんな状況になってもぶれない普遍性を身につけることが重要である。

仏陀が語る、燃えている家のたとえ」。詩。仏陀のゴータマが燃えている家のたとえを語る。僕は俗物だから家が燃えたら現金を持って一目散に逃げ出すけど、ナチスという大変動を経験したユダヤ人にとってはそれもままならなかったわけだ。ぼやの段階でそれが大火事になると気づかなかった。なかなか深い寓話である。

「実験」。フランシス・ベーコンが出獄して自分の領地に帰る。彼はそこで少年を助手にするのだった。あるとき、ベーコンと少年を乗せた馬車がニワトリを轢き殺してしまう。ベーコンは少年に命じ、ニワトリの内臓をかき出して代わりに雪を詰めさせる。確かに庶民の間では当たり前の経験知なのだろうけど、少年にとっては実験して知ることが重要なのだろう。現代で言えば、夏休みの自由研究みたいな感じ。それが科学の入り口になる。

「ウルム 1592年」。詩。仕立て屋が司教に自分は空が飛べると言う。司教はそれを信じない。仕立て屋は翼に見えるものをかついで教会の屋根に登り……。思うに、ブレヒトって科学に対して一定の信頼を抱いているのではなかろうか。それは「実験」もそうだし、本作もそう。仕立て屋に対置させる存在が司教なところが輪をかけている。

「異端者の外套」。ジョルダーノ・ブルーノが都市貴族の密告で異端審問所に逮捕された。ブルーノは外套を仕立ててもらったがその代金が未払いであり、仕立て屋はそれを取り立てようと異端審問所に赴く。毎日のように拷問され、火刑の危機に直面しながらも未払い料金のことを気にするブルーノが立派だ。火刑に処されたときの毅然とした態度と一貫している。偉大な人間は些事にも気を配るということだろうか。

「子どもの十字軍 1939年」。詩。1939年、焼け野原になったポーランドで子供の十字軍が始まる。ポーランドってナチスソ連に蹂躙されて踏んだり蹴ったりだよな。それはともかく、詩の内容はギュンター・グラスみたいだった。

カエサルカエサルの軍団兵」。終身独裁官カエサルは東方への遠征を計画していたが、シティの銀行家たちの動きが芳しくない。危機を察知したカエサルは民主政を再び導入し、自分は退位して私人になろうとするが……。一度頂点に立ったら突き抜けない限り奈落に落ちるしかないのが独裁制の欠点である。ヒトラー然り、フセイン然り。本作はそんなカエサルを秘書官が助けようとするも、思わぬ都合で叶わない。そのすれ違いがせつなかった。フィクションだからワンチャン助かるかも、と思ってしまう。

「クヤン=ブラクの絨毯職工たちがレーニンを記念する」。詩。変わった方法でレーニンを記念する。自分たちの役に立つことをしてレーニンを記念するという発想が面白い。確かに銅像を建てるなんて非建設的だ。

「ラ・シオタの兵士」。進水式を祝う市で銅像の代わりに彫像人間が立っていた。彼は任意の期間、彫像のようにじっと動かず立っていられるという。昔の見世物小屋にだったら、こういう人物が実在していてもおかしくないと思う。それくらい僕は見世物小屋にロマンを抱いている。それはともかく、この兵士を様々な歴史が貫いていくところが面白かった。

「本を読んだ労働者が質問した」。詩。どちて坊やみたいだった。でも、こうやって疑問を抱くことこそが初学者にとって重要なのだろう。素朴な好奇心が学問の芽になり、社会を前進させるきっかけになる。今だったら「ググレカス」で済んじゃうけど。

「怪我をしたソクラテス」。ソクラテスが軽装歩兵隊の一員としてデリオンの戦いに参加する。戦いが始まるとソクラテスは後方に逃げ出し、アザミの畑で棘を踏んで負傷してしまう。ソクラテスが嘘をつけない性格なのが面白い。あと、妻のクサンティッペが意外と悪妻ではなかったところも。最後にソクラテスが語った真相は確かに嘘ではないのだけど、別の人から見たらまた違った光景になるはずで、そこは視点の差異を意識させるものだった。

「兄は飛行士だった」。詩。こういう詩を1937年に書いてるのは先見の明があるとしか言いようがない。

「分不相応な老婦人」。祖母が72歳のとき祖父が死ぬ。祖母は子供たちの勧めを断って一人暮らしをすることに。映画に行ったりホテルのレストランで食事をしたり、ささやかな余生を送る。老後ってこういうものなのだなあ、と思った。それまで課されていた義務から解放される。でも、それは何年も続くものではない。翻って、現代日本において老後は存在しない。一億総活躍社会によって死ぬまで働くことを強要されている。高度資本主義社会とは何て世知辛いのだろう。

「亡命の途中に生まれた『老子道徳経』の伝説」。詩。亡命途中の老師を税関の役人が引き止める。その教えに興味を持った役人は老師に教えを書き留めてもらうのだった。こういうのを読むと、ソクラテスが著作を残さなかったのは許し難いと思う。弟子のあれは創作だし。イエス・キリストだって著作を残すべきだった。そして、今日の日本人も140字の世界で満足してものを書かない。許し難いことだ。

「コイナーさんの物語」。エピソード集。コイナー氏は地に足のついた市井の哲学者という感じだ。「知的である」とはこういう人のことを指すのだろう。そして、なかなかお茶目でもある。