海外文学読書録

書評と感想

ジェイン・オースティン『分別と多感』(1811)

★★★

ダッシュウッド家の未亡人と娘の三姉妹はサセックス州のノーランド屋敷に居候していた。長女のエリナーには「分別」があり、同じく分別のある地味な青年エドワードと恋仲にある。一方、次女のマリアンは「多感」なせいか、エドワードの良さが分からなかった。やがて未亡人たちはデヴォン州のバートン・コテッジへ引っ越すことに。マリアンは当地で情熱的なウィロビーと知り合って恋仲になる。

「大佐がリューマチのことをこぼしているのを聞いたことないの? リューマチはいちばんありふれた老人病よ」

「ねえ、マリアン」母親が笑いながら言った。「そのぶんだと、おまえは私がいつ死ぬかと、いつも心配してるんだろうね。私が四十歳の高齢まで生き長らえたことが奇跡に見えるだろうね」

「お母さま、それは誤解よ。ブランドン大佐がそんなに高齢ではないことはわかってるわ。もうすぐ老衰で亡くなると心配するような年ではないわ。あと二十年は生きられるでしょうね。でも三十五歳というのは、結婚には無縁な年齢よ」(p.54)

結婚を巡って二転三転するところが面白かった。誰と誰がくっつくのが最後まで予測がつかないところがいい。マリアンとウィロビーはワンチャン復縁するかもと思ったし、余ったブランドン大佐がエリナーに乗り換えるかもと思った。もちろん、枠外に飛び出たエドワードの去就も見逃せない。本作は似合いのカップルがこじれにこじれて解体し、そこからどう再編成されるのか興味が尽きなかった。

「多感」に対する「分別」の優位性が示されているような気がする。「分別」の化身たるエリナーによると、「多感」のマリアンは「神経過敏な繊細な心を持ち、鋭敏で繊細な感受性や、洗練された気品のある態度などをあまりに重要視するために、他人にたいする評価がきびしくなりすぎる」らしい。そのせいで他人に対するマリアンの意見はしばしば公平さを欠くのだ。そもそもマリアンにとっての理想の男性像が偏っている。「趣味がぴったり一致する男性」じゃないと駄目だし、「何もかも私と同じ感じ方をする人」でなければ駄目。さらに、「同じ本や同じ音楽に、ふたりで一緒に夢中になれなくてはだめ」とも言っている。これって自他の境界が曖昧すぎやしないだろうか。趣味や感性が一致しない人間を認めることこそが自立であって、他人に自分との同一性を求めるのは自己愛にも程がある。要は自分の分身とつき合いたいってことだし。「多感」のマリアンは直情的な性格が幼稚さと同居しており、そのせいで彼女の言動は軽率に見えてしまう。そして、その軽率さを冷静に観察するのが「分別」のエリナーなのだった。

本作で興味深いのがパーマー夫妻の存在だ。2人は当初、不似合いな夫婦として登場する。夫はいつもむっつりしていて偉そうな態度。一方、妻はそんな夫を面白がって陽気に振る舞っている。これはエリナーとエドワード、そしてマリアンとウィロビーのアンチテーゼだろう。何も似合いのカップルだけがカップルなのではない。時に正反対の性質のもの同士が結婚し、割れ鍋に綴じ蓋として幸福な家庭を作り出す。実際、この夫婦はマリアンがある人物とくっつく予告編のようなものになっていて、ここでも「多感」の理想が間違っていたことが示されている。

ブランドン大佐は35歳の独身男性なのだけど、マリアンから老人扱いされていて複雑な気分になった。「三十五歳というのは、結婚に無縁な年齢よ」とまで言われている。さすがにエリナーは大佐をフォローしているけれど、その言い分が「私は良識のある人にとても魅力を感じるの。そうよ、マリアン、たとえ三十五歳の男性でもね」とやはり年齢が引っ掛かるようだ。現代日本でも35歳の独身男性は異常独身男性と呼ばれている。古今東西、エイジズムの壁は厚いと痛感したのだった。

本作のテーマのひとつが結婚にまつわる経済問題で、財産が自由と幸福をもたらすと考えられているところがシビアだった。愛があれば何もいらない、という世迷い言は通用しないのである。だからカップルが成立して大団円を迎えるときは、同時に経済問題も解決されることになる。この現実主義がたまらなく痺れる。