海外文学読書録

書評と感想

ルシア・ベルリン『掃除婦のための手引き書』(2015)

★★★★

短編集。「エンジェル・コインランドリー店」、「ドクターH.A.モイニハン」、「星と聖人」、「掃除婦のための手引き書」、「わたしの騎手」、「最初のデトックス」、「ファントム・ペイン」、「今を楽しめ」、「いいと悪い」、「どうにもならない」、「エルパソの電気自動車」、「セックス・アピール」、「ディーンエイジ・パンク」、「ステップ」、「バラ色の人生」、「マカダム」、「喪の仕事」、「苦しみの殿堂」、「ソー・ロング」、「ママ」、「沈黙」、「さあ土曜日だ」、「あとちょっとだけ」、「巣に帰る」の24編。

わたしは睡眠薬をためこんでいる。前にターと取り決めをした――もしも一九七六年になってもにっちもさっちもいかなかったら、波止場の端まで行ってお互いをピストルで撃とう。あんたはわたしを信じなかった。きっとおれを最初に撃って自分だけ逃げるんだろうとか、先に自分で自分を撃つんだろうとか。もう駆け引きはたくさんだよ、ター。(p.58)

A Manual for Cleaning WomenAmazon】に収められた43編から24編を訳出している。コピーライトを見ると、一番古い短編が1977年、新しい短編が1999年のようだ。

ところで、アメリカ文学の翻訳家は作品に対してよく「声」とか「ヴォイス」とかいう表現を使うけれど、これが何なのかさっぱり分からない。きっちり定義しないまま曖昧に使われ、曖昧なまま業界内に広がっている。この状況が気持ち悪い。

以下、各短編について。

「エンジェル・コインランドリー店」。「わたし」がニューメキシコ州のエンジェル・コインランドリー店で、年老いたインディアンと出会う。彼はアルコール依存症のようだった。アパッチの長を自称している。まったく接触のなかった2人にコミュニケーションが生まれ、思い出の彼方へ消えていくところがいいのだけど、僕が特に気に入ったのは、「わたし」が自分の手を見る場面だった。「わたしの目はうろたえていた。自分の目を見、それから自分の手を見た。ひどい老人斑、傷あとが二本ある。非インディアンの、落ちつきのない、孤独な手だ。子供たちと男たちといくつもの庭が、その手の中に見えた。」(pp.11-12)。こんな短い文章で「わたし」の年輪を言い表すところがすごい。しかも、いくぶん詩的ですらある。

「ドクターH.A.モイニハン」。聖ジョセフ校を退学になった「わたし」は、祖父の歯科医院で働かせる。祖父は西テキサスで一番腕のいい歯医者だった。時代は第二次世界大戦中のようだけど、驚いたのが入れ歯のメカニズムだった。何とまだ残ってる歯をひっこ抜いてから入れ歯を入れてるのだ。おいおい、いくら何でもハードすぎないか? それはともかく、本作はラスト三行が良かった。「わたし」と母の会話。

「星と聖人」。「わたし」はプロテスタントであるにもかかわらず、カトリックの聖ジョセフ校に通っていた。学校の成績は良かったものの、宗派が違うため教会には参加できない。本作では退学になった経緯が書かれている。娘に嫉妬する「わたし」の母親ってBPDなのでは。これだけで判断するのは危険だけど。ともあれ、本作は書き出しが素晴らしかった。精神科医の前で醜態を晒すエピソードは最高の導入部である。

「掃除婦のための手引き書」。掃除婦の「わたし」がバスに乗って各所で仕事をする。その合間に掃除婦向けのTIPSが挿入される。また、「わたし」はもしものために睡眠薬を集めていた。これはユーモアと死の予感が織り交ぜられていて印象深かった。掃除婦の立場は『家政婦は見た!』【Amazon】に似てるかもしれない。彼女たちは雇い主の秘密を知る立場にいる。それにしても、本作を読んで人生ってままならないなと思った。思い通りに生きていけないから悲哀がある。

「わたしの騎手」。緊急救命室で働く「わたし」は、スペイン語が話せるため騎手を受け持っている。彼らはたいていメキシコ人だった。また、ほんものの男でもある。2頁の掌編。強いものが弱っていて、それを看病するのって、女性にとってはある種の理想なのだろうか。母性が刺激されるとか? 僕にはよく分からない感覚である。

「最初のデトックス」。教師で子持ちのカルロッタが、郡立病院のデトックス棟で目を覚ます。彼女はアルコールを飲んでやらかしていた。アル中たちがどの酒を飲んでいるかでマウントを取るのって、病人が飲んでる薬や症状の重さで競うのに似ている。こういうのはどこでもあるんだなあ。でもって、アルコールは簡単には止められないみたい。悲しいね。

ファントム・ペイン」。「わたし」と養護施設に入った父との交流。父はボケていて記憶が怪しい。終いには「わたし」のことを赤の他人だと思うようになった。何かしみじみとした話だ。「わたし」は父を見捨てず、むしろ一抹の希望を抱きながら彼の元に通っている。本作では糖尿病で脚を失った患者がファントム・ペインを訴えていて、それがいいアクセントになっている。

「今を楽しめ」。「わたし」がコインランドリーでトラブルに巻き込まれる。本書でコインランドリーが舞台になるのはこれで2回目。アメリカではそれだけ一般的なのだろうか。実は僕も最近、乾燥機だけ使ってる。1回100円なので。それはともかく、BARTで始まってBARTで終わる対照的な構成で面白かった。

「いいと悪い」。チリのお嬢様学校に通っている「わたし」が、共産主義者のドーソン先生に誘われて行動を共にする。共産主義者にいまいち共感できないのは、貧民に肩入れするあまり視野狭窄に陥ってるところかな。本作を読んでいても、援助のやり方が間違っていて改善の余地があるように思える。でも、週一のビスケットなんて焼け石に水と言う「わたし」に対する返答は格好良かった。こういう返しはなかなかできない。

「どうにもならない」。アル中の女が夜中に酒を買いに行く。いやホント、どうにもならないな、これ。子供がいてアル中は最悪だよ。本人は止められないし。夜中に酒を求めて屯する下層の人たちの肖像と、母親を心配する13歳の息子。世の中には色々な人がいる。

エルパソの電気自動車」。電気自動車を運転するミセス・スノーデン。彼女は時速20kmしか出さなかった。やがてパトカーがやってきて……。これはユーモラスな掌編だった。聖書を引用してミセス・スノーデンの面白さを引き立てている。

「セックス・アピール」。従姉のベラ・リンが、13歳の「わたし」を連れてディナーに行く。お目当ては有名ゴルフ選手のリッキー・エヴァース。彼は最近、女優と離婚したばかりだった。セックス・アピールって、お互いに下心があるから成立する高度な空中戦であり、たとえるならモールス信号みたいなものだと思う。分かる人には分かる暗号というか。それにしても、リッキーってロリコンでは……。

「ディーンエイジ・パンク」。1960年代。ツルが用水路に飛来することになっていた。教師の「わたし」がそれを少年ジェシーと見に行く。本書を読んでいると、世の中のあらゆる出来事は聖書にたとえられるんじゃないかと思う。人為的なものは言わずもがな、ツルが飛び立つような自然現象さえも。

「ステップ」。西オークランドデトックスで、カルロッタたちがボクシングの試合を観る。対戦カードはベニテスVSシュガー・レイ・ロビンソン。ボクシングには詳しくないけど、シュガー・レイ・ロビンソンは『レイジング・ブル』【Amazon】に出てきたのを思い出した。ロバート・デ・ニーロ演じるジェイク・ラモッタと一世一代の大勝負をしている。それはともかく、本作もキリスト教らしい比喩が使われていた。

「バラ色の人生」。チリ。夏休み中のゲルダとクレアが、「バラ色の人生」の調べに乗って男たちと踊る。後でゲルダの父親に叱られる。途中で地震が起きるところがチリらしいかな。でも、チリを舞台にしてるわりには、ラテンアメリカの作家のような土俗的な雰囲気がなくて、あくまでこちら側といった感じである。

「マカダム」。1頁ちょっとの掌編。囚人たちが道路を舗装する様子を描いている。マカダムは砕石による舗装らしい。日本ではあまり見かけない?

「喪の仕事」。掃除婦の「わたし」が、死んだ黒人の郵便屋の家で、息子と娘による形見分けに立ち会う。娘の性格の悪さが面白かった。「わたし」にピシャリとものを言ってくる。あと、印象的な文章もあった。「彼女は無言だった。だが死が彼女に作用しているのがわたしにはわかった。死には癒しの力がある。死は人に許すことを教え、独りぼっちで死ぬのはいやだと気づかせる」(p.168)。僕も肉親の死に直面したらこの文章に思いを馳せよう。

「苦しみの殿堂」。メキシコで「わたし」の妹が癌で死にかけている。そのため、「わたし」はオフレンダという祭壇を作っている。「わたし」は死者の日になくなった母について語るのだった。タイトルは公園にある墓地の名前。なかなかイカした名前ではないか。本作にも印象的な文章がある。「ママ、あなたはどこにいても、誰にでも、何にでも、醜さと悪を見いだした。狂っていたの、それとも見えすぎていた? どちらにしても、あなたみたいになるのは耐えられない。わたしはいま恐れている……だんだん美しいものや正しいものを感じられなくなっていくようで。」(p.175)。歳をとるとはこういうことだろうか。そして、もうひとつ。「死には手引き書がない。どうすればいいのか、何が起こるのか、誰も教えてくれない」(p.183)。ポピュラー音楽の歌詞になりそうな感じ。とてもイカしてる。

「ソー・ロング」。メキシコで妹の看病をする「わたし」のところに、元夫のマックスが電話をかけてくる。彼との思い出について。かつての連れ合いとこうして人間関係が続いてるのが羨ましい。僕は元カノのことなんて思い出したくもないから。マックスってかなりいい人っぽいけど、ただひとつ悪癖があって、そこでプツンと2人が断絶してしまうのが残念だった。人生はままならない。

「ママ」。「わたし」と妹が死んだ母親について語る。一人の人間が汚れたり、歪んだりしていく様子が明晰に語られていて興味深かった。人間はみんな弱い存在で、アルコールやらストレスやらといった外的要因に押し潰されてしまうのだ。他人を傷つけ、自分を傷つける。本作にも印象的な文章があった。「『愛は人を不幸にする』と母は言っていた。『愛のせいで人は枕を濡らして泣きながら寝たり、涙で電話ボックスのガラスを曇らせたり、泣き声につられて犬が遠吠えしたり、タバコをたてつづけに二箱吸ったりするのよ』」(p.203)。男女の愛というのは、お互いが同じくらい与え合ってないとバランスが崩れて関係が壊れる。愛しすぎたら相手は遠くへ行ってしまうし、その逆だったら相手を邪険に扱ってしまう。難しいところだ。

「沈黙」。お嬢様学校を退学になった「わたし」が、ホープというシリア人の女の子と友達になる。彼女は生涯で一番の友達だった。沈黙が時に人を傷つけるという話も示唆的だけど、個人的に注目したいのは、「わたし」とホープがアイスキャンディーを盗んだエピソード。「わたし」の母が娘をこっぴどく叱ったのに対し、ホープの母は娘は悪くないと逆ギレしたのだった。そこで「わたし」はこう思う。「ああこれだ、とわたしは思った。わたしは自分が悪くないときに母に自分を信じてほしいだけではなかった。たとえ悪いことをしたときでも、自分に味方してほしかったのだ。」(p.220)。親が子に与える無償の愛とはたぶんこういうことなんだと思う。

「さあ土曜日だ」。刑務所の常連である「おれ」は、同じ囚人のCDに一目置いていた。彼らは創作教室で学んでいる。創作の先生もCDを高く評価していた。『プリズン・ブック・クラブ』【Amazon】を読むと、欧米の囚人って学がないだけで地頭はいいんだと思う。無知なわりに言うことが鋭いから。生活環境が影響してるのだろうか? それはさておき、死体をほのめかす課題と作品の結末が重なるのは粋な趣向だった。

「あとちょっとだけ」。オークランドに住んでいた「わたし」は、メキシコシティにいる妹から癌になったと連絡を受ける。「わたし」は3日で身辺整理をして現地へ行く。著者が死に際の妹について繰り返し書くのは、追憶の意味があるのだろうか。本書は全体的に私小説みたいだけど、もっとも多く題材にしているのが妹についてだった。それだけ人生において強いインパクトがあったのだろう。

「巣に帰る」。カラスを見ていた「わたし」が、自分の人生に「もしも」をつけて回想する。私事で恐縮だけど、大して長く生きてない僕もこういうことを考えたことがあった。もしも小学生のときに転校しなかったらどうなっただろう? みたいな。そうしたら人生で出会った人たちはガラリと変わる。僕の場合、中学生のときの人間関係がその後の進路に大きな影響を与えていた。もしも転校しなかったら向学心に燃えず、今よりも怠惰に生きていたかもしれない。