海外文学読書録

書評と感想

アンソニー・ホロヴィッツ『カササギ殺人事件』(2017)

★★★★

1955年。サマセット州のパイ屋敷で家政婦が死んだ。死因は、掃除機のコードに足を引っ掛けての転落死。ところが、その死が村に思わぬ波紋を引き起こし、さらに第2の死者を生むのだった。名探偵アティカス・ピュントが事件の謎を解く。

ミステリとは、真実をめぐる物語である――それ以上のものでもないし、それ以下のものでもない。確実なことなど何もないこの世界で、きっちりとすべてのiに点が打たれ、すべてのtに横棒の入っている本の最後のページにたどりつくのは、誰にとっても心の満たされる瞬間ではないだろうか。わたしたちの周囲には、つねに曖昧さ、どちらとも断じきれない危うさがあふれている。真実をはっきりと見きわめようと努力するうち、人生の半分はすぎていってしまうのだ。ようやくすべてが腑に落ちたと思えるのは、おそらくはもう死の床についているときだろう。そんな満ち足りた喜びを、ほとんどすべてのミステリは読者に与えてくれるのだ。(下 p.259)

カントリーハウスを舞台にした正統派ミステリかと思いきや、外枠にその作者を巡るもうひとつのミステリがあって、両者が緊密に結びつく二重構造が面白かった。しかも、ただの一発ネタではなく、どちらも単品として読むに堪えるほど丁寧に書かれている。最近はミステリ小説にあまり魅力を感じてなかったけれど、こういう力作ならたまに読んでもいいかなと思った。

外枠にある作家の創作秘話が面白い。どの人物にもモデルがいるし、作品ごとに名前で遊んでいる。さらに、シリーズタイトルで重大なアナグラムを組んでおり、それが殺人事件にまで繋がっている。ミステリの形式としてはアガサ・クリスティの影響を強く受けていた。シリーズは読者の絶大な支持を受け、この作家は押しも押されもせぬ人気作家になっている。富と名声を手に入れて何とも羨ましい限りだけど、しかし彼自身はその状況に満足していなかった。というのも、彼の尊敬する作家は、サルマン・ラシュディマーティン・エイミスデイヴィッド・ミッチェルウィル・セルフであり、本当はミステリなど書きたくなかったのだ。ミステリ作家としてではなく、文学の「偉大な作家」として認められたかった。ところが、試しに主流文学を書いて編集者に渡すも、それは駄作と判断されて出版されない。この作家はそういう鬱屈を抱えている。日本でも自分のことをエンタメ作家と呼ばれるのを極度に嫌う人がいるけれど*1、こうやって現実と理想のギャップに押しつぶされるのは万国共通なのだった。

「世間はもう、殺人事件には飽き飽きしてるんじゃないでしょうか?」と訊かれた映像プロデューサーが、『主任警部モース』や『刑事タガート』といった具体的なドラマ名を列挙し、世界中の人間が殺人事件を飽きずに楽しんでいる事実を示している。日本でも『相棒』シリーズや東野圭吾原作のミステリドラマが人気だ。この現象は個人的には不思議に思っていて、なぜそんなに殺人事件を皆が欲しているのか首を捻っている。さらにミステリマニアに至っては、20年も30年も同じジャンルの小説を愛読していて、よく継続するものだと感心する。だいたいミステリなんて、殺人→推理→解決のワンパターンではないか。僕自身、そういうのにうんざりして主流文学に移っていったので、筋金入りのマニアのモチベーションが気になるのだった。

個人的にミステリは1年に2~3作、本作に匹敵するレベルのものが読めればいいと思っている。これは贅沢な望みだろうか?

*1:そういう人はたいてい自己評価が異様に高く、Twitterエゴサーチをしては自作の評判に一喜一憂している。