海外文学読書録

書評と感想

セルジオ・レオーネ『続・夕陽のガンマン』(1966/伊=独=スペイン=米)

続 夕陽のガンマン

続 夕陽のガンマン

  • クリント・イーストウッド
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★★★★★

南北戦争。善玉のブロンディ(クリント・イーストウッド)は卑劣漢のテュコ(イーライ・ウォラック)と組んで金を稼いでいた。ところが、ある日ブロンディがテュコを見限って荒野に置き去りにしてしまう。テュコは復讐に燃えることに。一方、悪玉のエンジェル(リー・ヴァン・クリーフ)もひょんなことから2人に絡んでくる。3人は墓に隠された20万ドルを手に入れるべく離れたり共闘したりする。

マカロニ・ウェスタン。『夕陽のガンマン』の続編ではない。

三つ巴の人間関係を遊戯的に組み替えていく脚本が素晴らしかった。3人が目標とするのは墓に隠してある20万ドルの大金である。しかし、墓場の名前を知っているのはテュコとエンジェルであり、墓標の名前を知っているのはブロンディだけである。テュコにとってブロンディは憎き相手だが、殺してしまうと大金の在り処が分からなくなる。だから一緒に組んで旅をするしかいない。一方、エンジェルにとっても同様で、テュコは殺してもいいがブロンディを殺すことはできない。テュコからブロンディを奪い取る必要がある。また、ブロンディにとってもテュコ(もしくはエンジェル)は必要な存在だった。彼らはそういう三つ巴の関係にある。それぞれがそれぞれの思惑で立ち回るところが本作の肝で、これぞ個人主義の世界だろう。まず自立した個人が存在して、他人とは利害に基づいた仮初の関係を結ぶ。イタリア人がここまでアメリカ的な価値観を理解しているのはすごいことだ。脚本家に拍手を送りたい。

主人公は一応ブロンディになるが、クリント・イーストウッドが演じているわりに完全無欠ではないところが面白い。というのも、彼はヘマをしてテュコに銃を突きつけられるのである。それも一度ではない。二度も命の危機に晒されている。面白いのは二度とも強運で切り抜けているところだろう。一度目は部屋に大砲が撃ち込まれたおかげで助かった。そして、二度目は御者のいない不審な馬車が通りかかったことで助かった。特に二度目は振るっている。テュコはブロンディから水も帽子も奪って炎天下の荒野を歩かせていた。ブロンディの足はフラフラ、顔は紫外線でボロボロである。地面に倒れ込むブロンディの前でテュコは水と食糧を好きなだけ平らげる。もちろん、ブロンディに分けたりはしない。こうして復讐を果たしたテュコはブロンディに銃口を向けてとどめを刺そうとしていた。馬車が通りかかるのはその矢先である。ブロンディはここで上手く立ち回ってテュコとコンビを組むことになる。テュコは窮地に陥ってもその都度自力で脱出しているが、ブロンディはそうではない。この対称的な人物像が面白かった。

ブロンディもテュコも酷い目に遭うが、悪玉のエンジェルだけはそうでもない。彼は終盤の決闘まで涼しい顔をしている。しかし、そのエンジェルが最後に死体になるところはバランスが取れている。いくら酷い目に遭っても生きてれば再起ができる。しかし、死んでしまったらすべてがお終いだ。だからもっとも酷いのは死ぬことなのだ。背景に南北戦争を据えたところにもそういう哲学が窺える。劇中に下半身を失った身体障害者が出てくるが、彼だって命が助かったから元気に暮らせているのだ。人間は死んだらお終い。期せずして命の大切さを思い知ることになった。

それにしても、西部劇の俳優はクローズアップが様になる。クリント・イーストウッドも、リー・ヴァン・クリーフも、イーライ・ウォラックもみんなクローズアップで渋い表情を見せている。顔に刻まれた皺、彫りの深い顔立ち、ワイルドな男臭さ。これが平たい顔族の日本人だったら格好がつかない。セルジオ・レオーネはクローズアップを多用する監督だが、そりゃこんなにいい俳優がいたら多用したくなるのも無理はないだろう。メインキャストの3人はみんな素晴らしかった。