海外文学読書録

書評と感想

今日は楽しい誕生日

誕生日なのでAmazonほしい物リストを公開します。ギフト券をくれたら本を買って記事を書くのでどんどん送ってください。それまでは映画の記事を続けます。

それにしても、世間の人は誕生日が来ると手放しで祝いますが、僕はこの日を迎えるたびに「死」が近づいていると感じて憂鬱になりますね。一度しかない人生、やりたいことをすべてやってから死にたい。

ちなみに、今は一般向けの少し長めの記事を作っていて、現時点で7割くらい完成しています。内容は文学関係で、おそらく資料的価値が高いです。文字数は1万字程度。来年公開するので楽しみにしていてください。

ブライアン・デ・パルマ『アンタッチャブル』(1987/米)

★★

禁酒法時代のシカゴ。ギャングのアル・カポネは、酒の密造と密輸で莫大な利益をあげていた。彼は警察や裁判所を買収して権勢を振るっている。そんななか、財務省捜査官のエリオット・ネスが、カポネを摘発すべく3人の仲間を集めて立ち向かう。4人は暴力や買収に屈しない姿勢から、「アンタッチャブル」と呼ばれることになった。

本作は午後のロードショーでポテチをつまみながら見る分には悪くないけれど、腰を据えて真剣に観るのだったらちょっときつい。実話ものという制約のせいか、総じて脚本に魅力がなく、それらしい名場面を繋げて2時間の映画に仕立てたような趣である。オデッサの階段ヒッチコックのオマージュも鼻についた。これはB級畑の監督が無理してA級に挑戦した、そういう文脈で理解すべきなのだろう。『カリートの道』は奇跡的に良かったということが分かった。

ロバート・デ・ニーロは可能な限りアル・カポネに似せた容貌になっていたけれど、やはり見ていてデ・ニーロにしか見えなかったので、実在の有名人を演じるのは大変だと思った。有名人が有名人を演じるという倒錯した状況だったので尚更。その点、4人の捜査官は実在の人物とはいえ、モデルはいずれも無名なので違和感がない。この辺のバランスが実写映画の難しいところで、唯一の解決策はアニメ化しかないだろう。実話ものはすべてアニメでやる。日本のアニメ業界は今後その方面で頑張ってほしい。

老警察官を演じたショーン・コネリーが格好良かった。彼は20年もパトロール業務に甘んじていたとは思えないほどの辣腕家で、エリオットの右腕として大活躍している。人生の先輩として若きエリオットに助言するところも渋くていい。僕もああいう人物と友情を育みたいと思ったほどだ。ただ、死に方には不満があって、あれだけ銃弾を浴びたのに即死しないのはおかしいだろ、とツッコんでしまった。銃撃後、けっこうな距離を這って移動していたし、その後もけっこうな時間を生き延びて遺言を残している。もう少し何とかならなかったか、と残念に思った。

エンニオ・モリコーネの音楽も素晴らしかった。一見してどうってことのないシーンも、彼の音楽が流れることで途端に緊迫感が溢れるようになる。映画は映像さえ良ければそれで十分と思ってたけど、トーキー以降は音楽も同じくらい重要だと実感した。たかが劇伴、されど劇伴。音楽の力は大きい。

フレッド・ジンネマン『山河遥かなり』(1948/スイス=米)

山河遥かなり 日本語吹替版 モンゴメリー・クリフト イワン・ヤンドル DDC-035N [DVD]

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★★★

ナチス・ドイツの収容所から解放された少年少女たちが、アメリカ軍の保安部隊によって食料と寝床を与えられる。ある日、チェコユダヤ人ハンナが息子カレルを引き取りにやってくるも、彼女の前に出てきたのは息子の名を騙る別人だった。それと同じ頃、本物のカレルは施設を脱走し、アメリカ軍兵士のスティーブに保護される。

途中からGIと子供の友情物語になるのは意外だった。日本と同様、ドイツでもGIは解放者だったみたい。少なくともそういうイメージで表象されている。周知の通り、戦後の日本では、子供たちが「ギブ・ミー・チョコレート」と言ってGIからお菓子を貰っていた。僕の知り限り、GIと子供の関係は悪くなかった。身も蓋もない言い方をすれば、施しによって懐柔されていた。本作は収容所から解放された子供たちに焦点を当てているため、日本とはだいぶ事情が異なるものの、ドイツでも解放者としてのイメージを作り上げている。この辺の戦略は「へー」って感じだった。

本作を観て驚いたのが、言語の違いを明瞭にしているところだ。大人たちが英語を話すのに対し、子供たちはチェコ語ポーランド語といった外国語を話している。お互いに相手が何を言ってるのか分からない。だから、両者は通訳を介してコミュニケーションを図っている。面白いのは、子供たちの言ってることが観客にもさっぱり分からないところだ。彼らのセリフには字幕がついてない。言葉の通じない他者としてスクリーンに映し出されている。この演出が、GIを警戒する態度と相俟って、相互理解の困難さを浮き彫りにしている。

それにしても、英語がグローバル言語であることをここまで押し出したのはなかなか凄い。スティーブはカレルのことをアメリカ風にジムと名づけ、英語を教えることでつつがなくやりとりしている。英語さえできれば世界中の人たちと交流できる。だから、マイナー言語の民は英語を覚えたほうが得だ。本作はそういうメッセージを発している。正直、これにはぐうの音も出なかった。日本で文科省が英語教育に必死なのも、英語が世界的に強い言語だからだし。覚えないとグローバル社会に置いていかれてしまう。チェコ語ポーランド語、日本語などでは世界に通用しないのだ。本作を観て、マイナー言語の悲しみを味わった。

ポール・オースター『ムーン・パレス』(1989)

ムーン・パレス (新潮文庫)

ムーン・パレス (新潮文庫)

 

★★★

ベトナム戦争中のアメリカ。大学生のマーコ・フォッグは幼くして両親を亡くしたあと、伯父によって育てられていた。ところが、その伯父もあの世に旅立ってしまう。マーコは困窮してホームレスに。その後、友人の家に居候し、キティ・ウーという中国系の女性といい関係になる。やがてマーコは、住み込みでトマス・エフィングという車椅子の老人の世話をすることに。エフィングはマーコに自身の秘密を語る。

「金が要るんだったら、働くっきゃないじゃないか。お前ときたら一日中ぼさっと部屋にこもってるだけだ。まるっきり動物園のチンパンジーと同じだぜ。仕事もせんで家賃が払えるわけないだろうが」

「いやいや、仕事はやってるさ。朝が来れば人並みに起きてる。そして、今日一日も生き延びられかどうか、じっくり考えるのさ。これはまさにフルタイムの仕事だよ。コーヒーブレイクもなし、ウィークエンドもなし。健康保険も有給休暇もなし。言いたかないけど、給料もおそろしく安いんだぜ」(pp.57-58)

ハードカバー版で読んだ。引用もそこから。

ニューヨーク三部作【Amazon】がポストモダンっぽい作風だったの対し、その次に発表された本作は一転してモダンな作風になっていた。

何と言ってもこの小説、作中にあり得ないような「偶然」をねじ込んで、読者の見ている景色を一変させるところがいい。フィクションには許せる偶然と許せない偶然があるけれど、本作は前者に分類されると思う。たとえば、ミステリでこういうことをやるとマニアから顰蹙を買うので、この手法は文学の特権と言えるかもしれない。「偶然」は扱いの難しい要素だ。

私生児のマーコが期せずして自分のルーツを知ることなる。本作を読んで、僕はマーコのことを羨ましいと思った。だって、彼は父と祖父、2人の数奇な人生を本人から直接語ってもらえたのだから。僕は定位家族とはほどほどに距離を置いてきたので、祖父母や両親がどういう生い立ちなのかまるで知らない。幼い頃に見せられた写真から、素行が悪いのは何となく察していたものの、彼らの具体的な人生はさっぱり分からないでいる。誰も僕に教えてくれなかったし、僕のほうでも尋ねるようなことはしなかった。幸いなことに、祖母と両親の3人は今も健在なので、訊く気になればいつでも訊ける。けれども、恥ずかしさが先に立って訊く気になれない。たぶん、僕は定位家族のことを何も知らないまま人生を終えるだろう。と、そういう諦念があるので、偶然の導きで自分のルーツを知ったマーコが羨ましいのである。

これは持論だけど、老人は若者に過去を語るべきだ。ワイアット・アープがジョン・フォードに西部のエピソードを語り伝えたように、あるいは原爆被爆者が戦争の悲惨さを学生たちに語り伝えたように、次の世代に記憶のバトンを受け渡す。それは家族間でも同様で、親は子へ、子は孫へ、後世に生きた証を残していく。そういうオーラルヒストリーが、時の重みを個人個人に刻みつけるのだ。人間の平均寿命は80歳程度だけど、自分の人生の終末期に他人の青年期が重なるのは、時間がもたらす奇跡だと思う。本作を読んで、物語ることの重要性を思い知った。

ガブリエル・ガルシア=マルケスの『生きて、語り伝える』【Amazon】を見習って、僕も長生きして自分の若い頃を語り伝えよう。

アンソニー・マン『ウィンチェスター銃'73』(1950/米)

★★★★

「千に一挺の銃」と称されるウィンチェスター銃'73。リン・マカダムはダッジシティの射撃大会で優勝してその銃を手に入れるも、仇敵のダッチに奪われる。以降、ダッチはポーカーに負けて商人に取られ、商人は先住民に強奪され、銃は次々と持ち主を変えていく。リンと相棒は銃を追跡するが……。

銃の持ち主を変遷させて話を転がしていくその着想が素晴らしかった。この時代の、しかも西部劇で、こういう脚本があったのかと感心。物語の中心にあるウィンチェスター銃は、日本だと名刀に相当するわけで、ひょっとしたら時代劇で似たような話があるかもしれない。本作では次々と銃の持ち主が変わっていくのだけど、彼らがまた次々と殺されていくその筋運びが絶妙だ。名刀にしても名銃にしても、優れた道具は人を誘惑し、呪いにかける。その存在はまるで死神のよう。恐ろしいったらありゃしない。

町での射撃大会やインディアンの襲撃、岩場での決闘など、ドンパチシーンは西部劇を語るうえで欠かせないだろう。

インディアンの襲撃シーンは敵の数が多くて絶望感がすごいものの、映像は今見るとかなり雑だ。馬に乗った彼らがウホウホ銃を掲げながら走り回ってるのだけど、銃口を水平に向けてないのになぜか弾丸が乱れ飛んでいて、どういう仕組みになっているのか不思議だった。物理的にあり得ないだろう、と。この辺は昔らしいおおらかな作りだと言える。

一方、岩場での決闘は凝りに凝っていて、リンがダッチを追い詰めていく様子はロジカルだ。跳弾を計算して岩の隙間にはめこんでいくところなんか、今まで観てきた西部劇にはなかった要素だと思う。ここでは2人の意外な関係も明らかにされていて、クライマックスにふさわしい対決だった。

ティーブのエピソードは観ていて悲しかった。小心者の彼は知人のガンマンに絶え間なく侮辱され、我慢できずに銃を抜いたらあっさり撃ち殺され、挙句の果てには妻とウィンチェスター銃を奪われている。銃=男根というお決まりのメタファーを採用するならば、銃の腕前がものを言うこの世界は、優れた男性性を競っている世界とも言える。ウィンチェスター銃はトロフィーなのだ。最終的にこれを所持したものが、男のなかの男に相当するのである。スティーブの末路ときたら男の沽券に関わるもので、これは見ていて自分と重ねてしまった。自分はリンでもなければダッチでもない。スティーブなのだ、と。今はジェンダー規範がゆるやかな時代で良かったと思う。己の男性性を守るために死ぬことはないから。昔に比べたら生きやすい。

今日は楽しい誕生日

誕生日なのでAmazonほしい物リストを公開します。ギフト券をくれたら本を買って記事を書くのでどんどん送ってください。それまでは映画の記事を続けます。

それにしても、世間の人は誕生日が来ると手放しで祝いますが、僕はこの日を迎えるたびに「死」が近づいていると感じて憂鬱になりますね。一度しかない人生、やりたいことをすべてやってから死にたい。

ちなみに、今は一般向けの少し長めの記事を作っていて、現時点で7割くらい完成しています。内容は文学関係で、おそらく資料的価値が高いです。文字数は1万字程度。来年公開するので楽しみにしていてください。