海外文学読書録

書評と感想

ハワード・ホークス『赤ちゃん教育』(1938/米)

赤ちゃん教育 Blu-ray

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  • 発売日: 2019/11/29
  • メディア: Blu-ray
 
赤ちゃん教育(字幕版)

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  • 発売日: 2020/05/23
  • メディア: Prime Video
 

★★★

動物学者のデヴィッド(ケーリー・グラント)が3年の月日をかけて恐竜の骨格を組み立て、残り肋骨1本というところまでこぎつける。デヴィッドにはパトロンの未亡人がおり、成り行きから彼女の顧問弁護士とゴルフをすることになった。しかし、それをスーザン(キャサリン・ヘプバーン)に妨害され、彼女の元に届いた豹を交えてドタバタに巻き込まれる。

予想以上にぶっ飛んだコメディで、目まぐるしく状況が変転するところは圧倒的だった。正直、そんなに笑えるシーンはないのだけど、とにかくやたらと登場人物が騒がしく、また話の転がし方が堂に入っている。この映画の何がすごいって、話が進むにつれて状況が混迷していくところだ。終盤では関係者のほとんどが拘置所に入れられていて、まさに物語が崩壊寸前といった感じである。ここからどうやって大団円に持っていくのだろう? と気を揉んだのだった。

豹が出てくるところも意味不明だ。劇中に「豹いらない?」「何で豹なんだ?」というやりとりがあるけれど、これは観客も同じ気分だろう。しかもこの豹がよく調教されていて、人間と滞りなく共演できている。本作といい、『モンキー・ビジネス』といい、動物が好演するコメディはモノクロの時代から作られていたのだ。とりわけ驚くのが犬と豹の決闘シーンで、これをどうやって撮ったのか、つまり、動物にどうやって演じさせたのか見当もつかない。ガチで決闘したら犬が殺されるはずだから、お互いに手加減してるはずである。しかし、ただジャレついているわけでもなく、一応は馴れ合いなしの戦いのように見える。これも調教の成果なのだろうか。いずにせよ、この時代から猛獣の訓練方法は確立されていたようである。

ケーリー・グラントは床ですっ転んだりコートを破られたり、3枚目の役をしっかり演じていた。キャサリン・ヘプバーンもトチ狂った娘をきっちり演じている。ケーリー・グラントは黒縁の眼鏡をかけているのだけど、終盤でそれが壊れて裸眼になる。つまり、3枚目から2枚目へと外見が変貌する。これによって彼のイケメンぶりが衆目に晒されると同時に、ヒロインとのロマンスに弾みがつくのだから心憎い。映画において小道具の使い方は重要だなと思った。

ケーリー・グラント演じるデヴィッドには婚約者がおり、物語は結婚前夜から当日を舞台にしている。従って、キャサリン・ヘプバーン演じるスーザンと結ばれるには相応の手続きが必要だ。しかし、本作ではそのコンフリクトを一瞬で解消してしまうのだから驚く。大団円に持っていくロジックに凄みがあった。

アン・ビーティ『愛している』(1985)

愛している (Novels for Her)
 

★★★

1984年のバーモント州。35歳のルーシー・スペンサーはニューヨークで人気の雑誌にコラムを書いていた。彼女には本命の男がいるものの、その男に去られてしまったため、大学時代から付き合いのある編集長と不倫している。そんなある日、姪のニコルがルーシーの家に滞在することになった。ニコルはハリウッドの子役スターで……。

お気に入りの小説のヒロインと同じく、モリーンには絶対にしたくないことがたくさんあった。テキーラを飲むこと。献血すること。ヴォランティアの仕事をすること。ヒルドンに教わったタイアの交換を実行すること。ナイフを研ぐこと。プルーストを読むこと。閉店間際の野菜売場で特価品を買うこと。オーラル・セックスをすること。メートル法を学ぶこと。シュノーケルをすること。エホヴァの証人と話をすること。ことば遊びをすること。(p.75)

当時の東海岸の空気を如実に伝える内容だけど、この時代に特別な関心がない限りは読む必要がないような気がする。正直、古典化するほどの小説ではない。ただ、個人的に興味深かったのはフェミニズムが背景にあるところで、作中にちょっとおかしなフェミニストが出てきて面食らった。また、ある登場人物は「姦通はだれにも止められない」と主張していて、実際、ルーシーと編集長が堂々と不倫している(フェミニズムはフリーセックスを推奨している)。この時代はもうキリスト教の規範から外れることが当たり前になっていた。同じ時代の南部の小説と読み比べたいところである。

本作は登場人物がやたらと雑談していて、彼らの生き生きとした会話劇が見どころだろう。本筋とは関係のない自然なお喋り。たとえば、第12章は紙幅の大半が2人の警官の会話で占められている。この章はラストで重大なイベントが発生するのだけど、それまでひたすら無駄話に費やされているのだった。おそらくこの文脈の上にタランティーノの映画が乗っかっているのだろう。物語の導線となる機能的な会話も自然なお喋りとして書かれている。これが物語に清新な空気を吹き込んでいた。

ただ、そういう明るさが基調にあるものの、作中には生活がもたらす影の部分も忍びこんでいる。編集長の妻には流産の経験があるし、ニコルの母は終盤で事故死した際、妊娠2ヶ月であることが判明する。生まれなかった命。それがライトモチーフとして作品を貫いているのだ。そして、永遠に続くかと思われた日常にも変化が訪れる。人間はある日突然死に、その玉突き現象として関係者の生活も変わる。仕事をやめることだって大きな転機だ。変わらないものなど何もない。人生とはそういうものだという大きなテーゼを内包している。

ルーシーとニコルの共通点は仕事で別人を演じていることだ。前者はコラムニストとして架空のキャラを演じ、後者は子役俳優として決められた役柄を演じている。2人は西海岸と東海岸の文化を代表していた。この東西の邂逅も本作に空間的な広がりをもたらしている。

ミゲル・デリーベス『異端者』(1998)

異端者

異端者

 

★★★

1517年のバリャドリッド。裕福な商人の家庭にシプリアーノ・サルセドが産まれる。ところが、まもなく母親が産褥死した。そのせいで父親はシプリアーノを憎み、彼の養育を乳母に任せてネグレクトする。長じてから商人として名を馳せたシプリアーノは、巷を騒がせているルター派の教義に惹かれる。やがて彼はドイツに行って情報収集と禁書の密輸に手を染めることになるが……。

手すりに身体をもたせかけていたベルガー船長がこちらへ向き直って肘をついた。

「ある本が原因で」と言った。「異端審問所が誰かに処罰を下すたびにそれが禁書となってしまう。反キリストの書物とは限らないのだ。たとえば『ロバイナの禁書目録』によると、スペイン語に訳された『聖書』も『新約聖書』も六年前に禁止されている。これは明らかにスペイン大衆は聖書を読んではならぬと言うことだ。」(p.29)

宗教改革の時代を扱った歴史小説。本作を読んで、我々の運命はその時代を支配する虚構に左右されるのだなと絶望的になった。16世紀のヨーロッパだとそれはキリスト教である。ドイツでルターによる宗教改革が始まり、ヨーロッパはカトリックプロテスタントに分裂した。スペインは国をあげてプロテスタントを取り締まり、信仰者を見つけては異端審問にかけて火炙りに処している。現代人からすると、たかが信仰の違いで殺されるのはたまったものではないけれど、しかし、当時は宗教という虚構に人の生死がかかっていた。カトリックにとってプロテスタントは教会権力を脅かすものだったから、徹底的に弾圧しなければならない。こういう歴史的事実を目の当たりにすると、人間社会のルールなんて当てにならないと思う。だって時代が経つにつれてそのルールが変わってしまうのだから。少なくとも、現代のヨーロッパでは信仰の違いで公共機関に裁かれることはない。ただ、国民国家という別の虚構が支配しており、今度はそのルールに従うことを強制されている。結局のところ、我々には選択権がないのだ。自分の生まれた時代と生まれた場所、縦軸と横軸の交差する小世界に縛られている。昔より相対的にマシになったとはいえ、現在のルールだって500年後の人類からしたら野蛮に映ることだろう。そういう巨視的な視野で見ると、国民国家の妥当性に疑問をおぼえてしまう。

シプリアーノのマザーコンプレックスが物語の重要な鍵になっていて、最初から最後までそれに振り回されている。母親を産褥死させた彼は「親殺し」の原罪を背負っており、父親から徹底的に忌み嫌われていた。14歳になったシプリアーノは乳母と寝るのだけど、これは『オイディプス王』【Amazon】の変奏と言えるだろう。ここで彼は擬似的な近親相姦を果たしたのだ。そして、結婚適齢期になってからは大柄な女テオドミーラに惚れてめでたく結婚にまでこぎつける。このとき、シプリアーノの体重が53kgだったのに対し、テオドミーラは80kgだった。テオドミーラの巨体は宮崎駿のアニメに出てくる母権的な女性を彷彿とさせるもので、実際、シプリアーノは彼女に母親の面影を見ている。しかし結婚後、テオドミーラが地雷女であることが判明。たびたびヒステリーを起こすため、シプリアーノは忍耐の日々を送ることになる。結局、テオドミーラは発狂して死んでしまうのだけど、これも実は一種の「親殺し」で、シプリアーノは母親と目した女を殺したのだった。テオドミーラとの間に子供が生まれなかったのも示唆的で、彼は父親という立場にならないまま、擬似的な母親と夫婦生活を送っていたのである。このようにシプリアーノを貫くマザーコンプレックスは深刻で、後の展開と合わせるとすこぶる神話的な人物に思える。

シプリアーノは宗教改革と同じ日、すなわちルターがウィッテンベルクの城塞教会に論題を打ち付けた日(1517年10月31日)に生まれた。言ってみれば宗教改革の申し子である。そんな彼に襲いかかる運命は苛烈で、その人生は見事に時代を体現している。日本ではなかなか読めないタイプの骨太な歴史小説だった。

シーグリッド・ヌーネス『友だち』(2018)

友だち (新潮クレスト・ブックス)

友だち (新潮クレスト・ブックス)

 

★★★★

ニューヨーク。女性作家の「わたし」には一時期肉体関係になりかけたほど懇意にしていた先輩作家がいたが、その彼が自殺してしまう。「わたし」は彼が飼っていた巨大な老犬を引き取ることになった。「わたし」は精神科医のセラピーを受けつつ、様々な断想を巡らす。

回顧録を書いている友人が言った。一種のカタルシスとして書くという考えは大きらいだ。なぜなら、それでいい本が書けるとはとても思えないから。(p.68)

全米図書賞受賞作。

古典作家から現代作家まで、様々な人物のエピソードなり箴言なりが散りばめられていて、とても贅沢な読書だった。コレットナボコフクッツェーなどを引き合いに出すあたり、文学好きのツボを全力で押しにかかっている。個人的には、本作みたいに固有名詞が乱舞する小説には非常に弱い。作者の博識ぶりに感心すると同時に、世界が拓けていくような奇妙な高揚感を得た。こういう本はとにかく読書欲を掻き立てられるから困る。読んでいる最中は、文学こそが世界のすべてではないかと錯覚した。

創作された「死」によって喪失感を捏造するところは初期の村上春樹みたいで、こういう手法は現代でも使われているのだなと感心した。書くべきことが何もない時代の人間はいったい何を書くべきか。そういう深刻な問題意識が洋の東西にまたがっている。この問題はとうに解消されたと思っていたけれど、21世紀になってもまだ残っていたようで、作家にとって悩みの種は尽きないのだった。食うためには何か書かなければいけない。しかし、書くためには何らかの題材を必要とする。この辺、「ネタがないこと」をネタにするブロガーみたいで可笑しかった。

「書くこと」をどう捉えるのかは、作家にとって永遠のテーマなのだろう。ヴァージニア・ウルフは『灯台へ』【Amazon】を書くことで母親の亡霊から解放された。一方、ナタリア・ギンズブルグは書くことによって深い悲しみが癒やされることはないと主張しており、ヴァージニア・ウルフの体験と真っ向から対立している。そして、ボードレールにとって芸術(書くこと)は売春行為だった。このように「書くこと」については様々な意見で満ち溢れていて、統一的な見解は存在しない。人の数と同じくらいこだわりがあり、誰もが一家言持っている。だからこそ魅力的なのだろう。

作品に対するカスタマーレビューの話が面白かった。ネット時代になって作家は読者の反応をダイレクトに知るようになったけれど、その結果は惨憺たるものだった。大半は読者ではなく消費者で、自分が想定していた読者像とはかけ離れている。作品を丁寧に読み解くのではなく、好き勝手に誤読する連中ばかりで、そのことに作家は苛立ちを募らせていた。こんな奴らに読まれるくらいなら、いっそのこと誰にも読まれないほうがマシなくらいだ。こういうのって割とよく聞く話で、「作品は誰のものか」という古来からの議論に通じるものがある。ある人は「誤読の自由」を主張するだろうし、またある人は「作者の意図を汲み取るべき」と主張するだろう。これに関しても何が正しいのか僕には分からない。作者は作者で自作への思い入れが強いあまりに目が曇っているし、読者は読者で他に娯楽がたくさんあるから骨身を削って読むことはない。作者と読者を巡る言説にはかくも複雑な背景が隠れており、これを整理して正解を導き出すのは容易ではないのだ。作家と読者は元来分かり合えない関係である。両者を結びつけたインターネットは罪深い。

というわけで、様々なトピックが盛り込まれた刺激的な小説だった。

ローベルト・ゼーターラー『ある一生』(2014)

ある一生 (新潮クレスト・ブックス)

ある一生 (新潮クレスト・ブックス)

 

★★★★

20世紀初頭のアルプス。私生児のアンドレア・エッガーは親戚の農場主に引き取られ、過酷な労働に従事させられる。大人になって自立したある日、雪山でヤギ飼いのヤギハネスを助け、死についての予言を受けるのだった。その後、エッガーは運命の女と出会って結婚するが……。

「死ぬってのはクソだな」マトルは言った。「時間がたてばたつほど、人はどんどんすり減っていく。とっとと終わる奴もいれば、ぐずぐず長い奴もいる。生まれた瞬間から、ひとつひとつ順繰りになくしていくんだ。まずは足の指一本、それから腕一本。まずは歯、それから顎。まずは思い出、それから記憶全部。そんな具合にな。で、しまいにはなにひとつ残らない。そして、最後に出がらしを穴に放り込んで、上から土をかけて、それでおしまいさ」(p.51)

20世紀を舞台に前近代的な人生が描かれていて、「生きるとは何か」と考えさせられるものがあった。というのも、主人公のエッガーは特に目標もなく、ただ生きるために生きている男で、地元の村から出ようとしない。彼が外に出たのは、戦争に駆り出されて捕虜になり、8年間ソ連に抑留されたときくらいである。それにしたって解放後はまたアルプスに帰ってきて肉体労働をしているのだから驚く。移民文学が全盛の現代において、このような土着性を押し出した物語は珍しい。エッガーの野心のなさには新鮮味すら感じる。

子供の頃のエッガーは、農場主のクランツシュトッカーから疎まれてよく鞭打たれていた。そんな彼も学校で教育を受けて文字が読めるようになる。その際、谷の向こうにある世界へのかすかな予感と恐怖感をおぼえるのだった。つまり、エッガーはここから飛び出して人生を切り開く可能性を得たのだ。普通だったらここぞとばかりに都会へ移住するだろう。しかし、彼はそうしない。クランツシュトッカーの家からは出たものの、地元で日雇いの仕事をして糊口をしのいでいる。この徹底した内向き志向は、現代人からしたら神話に見えるくらい古びている。この男はただものではない、と畏怖したのだった。

僕もかつてはそうだったけれど、現代の若者はとにかくイキっていて、SNSなどで「人生楽勝!」みたいな景気のいい書き込みをしては他人を見下している。しかし、人間の寿命は80年もある。好調を維持したまま老年までたどり着けるとは限らない。何度か浮き沈みを繰り返し、気がついたら予想もしなかった場所に流されていることだろう。そして、自分が何のために生きているのか分からなくなって混乱する。もはやレールに乗った人生は送れないのだ。果たして、10年後・20年後はどうなっているか。金持ちになっているかもしれないし、ホームレスになっているかもしれない。結婚しているかもしれないし、独身のままかもしれない。健康かもしれないし、病気を患っているかもしれない。文学作品を読むとそういうことを強く意識させられるので、若者は読書に励んだほうがいいと思う。

小説とは省略の芸術で、本作でもその本領が存分に発揮されていた。たとえば、エッガーは8年間ソ連に抑留されるのだけど、本作はその間のエピソードを一切書かず、すぐに帰郷させている。そうすることで、アルプスでの生活に焦点を定めているのだ。そもそも大胆に省略しなかったら、人一人の人生を150頁に収めるなんて到底できなかっただろう。ここら辺はいかにも現代文学だなと感心した。