海外文学読書録

書評と感想

アルフレッド・ヒッチコック『三十九夜』(1935/英)

三十九夜 [DVD]

三十九夜 [DVD]

  • 出版社/メーカー: ファーストトレーディング
  • 発売日: 2011/02/16
  • メディア: DVD
 

★★★★

カナダから休暇を過ごしにロンドンにやってきたハネイ(ロバート・ドーナット)が、ミュージックホールで「メモリー・マン」の芸を鑑賞する。するとそこで銃声が。その場にいた女性を成り行きからホテルに連れ帰ると、軍の機密が国外に持ち出されるという話を聞かされる。その後、女性は何者かに刺殺され、ハネイに殺人の容疑がかけられるのだった。紆余曲折を経てハネイは列車で知り合ったパメラ(マデリーン・キャロル)と手錠で繋がれ、陰謀を暴こうとする。

原作はジョン・バカン『三十九階段』【Amazon】。

学生時代に観たときはヒッチコックの最高傑作だと思ったけど、今観たらそうでもなかった。『レベッカ』【Amazon】のほうがよっぽど上だと思った。何らかの心境の変化が起きたのだろうか? とはいえ、アメリカ時代に比べるとテンポが良くて好ましいのは確かで、本作は娯楽映画のお手本だと思う。やはり映画は90分くらいがちょうどいい。3時間超えの大作なんて観たくないよ(『アイリッシュマン』【Netflix】、お前のことだ)。

イギリスの危機を救うのがカナダ人というへんてこさが印象に残る。でも、当のカナダ人は自分にかけられた殺人の容疑を晴らすために行動しているので、行為と動機にギャップがある。あくまで自分の身を守るために国家の利益を守ろうとしているわけ。主人公がヒーローじゃないところが巻き込まれ型サスペンスのいいところで、ひねくれた観客を黙らせる効果がある。

冒頭のショーや選挙の演説シーンも印象的だ。どちらも聴衆からのやじに対して演者が当意即妙の返しをしている。こういうのは洋の東西を問わない古き良きライブ文化だろう。頭の回転が早くないと人前には立てない。ユーモアセンスがないとその場を仕切れない。僕は加齢によってそういう能力を無くしてしまったので、彼らが羨ましいと思うのだった。僕も芸人みたいなトークスキルが欲しい。トークスキルを身につけて大衆を沸かせる演説をしたいと思う。

サスペンスの演出として面白かったのが、序盤でホテルの電話が鳴るシーン。電話の呼び出し音が延々と鳴り続けるのには緊張感があった。僕は子供の頃から電話が苦手で、その理由は日常に突然別の世界が割り込んでくるからだ。こちらの都合なんてお構いなしに、けたたましい呼び出し音が鳴り響いてくる。あの呼び出し音には、「早く受話器を取らなければ」という威圧感すらあると思う。本作はそういう心理を利用したギミックが使われていて、当時から電話は疎ましい存在だったことが分かる。

列車に乗り込んだハネイが初対面のパメラにキスしたのは、本来なら終盤に持ってくるシーンを先取りしたような格好になっており、通常の映画とは違った変則的な構成になっている。そもそも、あの時点でパメラがヒロインになるとは思ってなかった。だから終盤で再登場したのには驚いたし、振り返ってみればあのキスには意味があったことが分かって再度驚く。主人公がカナダ人なところといい、やはり本作はへんてこな映画だと思う。

クラレンス・ブラウン『愛の調べ』(1947/米)

愛の調べ [DVD]

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  • 出版社/メーカー: ファーストトレーディング
  • 発売日: 2011/02/22
  • メディア: DVD
 

★★★

天才ピアニストのクララ・ヴィーク(キャサリン・ヘプバーン)が、父の反対を押し切ってロベルト・シューマン(ポール・ヘンリード)と結婚する。10年後、シューマン夫妻には7人の子供が出来ており、家事と育児に大わらわになっていた。そんななか、20歳のヨハネス・ブラームスロバート・ウォーカー)が弟子になりたいと言って訪ねてくる。ブラームスはクララに一目惚れしていた。

シューマン夫妻の伝記映画。ピアノの演奏はアルトゥール・ルービンシュタインの音源を使っているようで、やたらと上手かった。音楽パートは芸術的と言っていいくらい素晴らしく、また役者も指が回っていて見応えがある。

ドラマパートにいまいち乗れなかったのは、作劇や美術がいかにもハリウッドらしかったからだ。役者がアメリカ人で、登場人物が英語を話すのは仕方がないにしても、シューマン家でのエピソードがどれもアメリカっぽいのが気になる。たとえば、鶏を殺そうとするシーンとか、ホームパーティーで盛り上がるシーンとか。ユーモアの質がアメリカっぽいし、家屋の雰囲気もいまいちヨーロッパ感が薄い。観ていてアメリカの郊外ではないかと錯覚したほどだ。これが80年代の『アマデウス』【Amazon】になると違和感がなくなっているので、名作も時代の制約には逆らえないことが分かる。こういうのは観るほうが周波数を合わせるしかないわけで、クラシック映画を楽しむのもなかなか難しい。

クララもロベルトも天才的な音楽家なのに、よく円満な夫婦生活を送れたと思う。僕だったら配偶者に嫉妬して関係がこじれただろう。僕は自分がナンバーワンというタイプなので、身近な人間の成功を素直に喜べない。シューマン夫妻の場合、クララが一歩引いてロベルトをサポートしているけれど、こういうことよくできるなあと感心する。いくら愛情があったとしても、他人の引き立て役になるなんてとてもじゃないが無理だ。誰よりも上に立ちたい僕にとっては我慢ならない立場である。

「人は束の間の人気にお金を払うの」というクララのセリフは含蓄がある。タレントと大衆の関係がまさにそれだ。これはネット時代になってからさらに加速していて、一般人も人気者になろうと躍起になっている。誰も彼もがアルファブロガーやカリスマYouTuberといったインフルエンサーを目指している。すべては金のため。人気者になれば金がガッポガッポ入ってくる。人間社会の本質を突いたセリフではないか。

ところで、序盤でウエディングドレス姿のクララがロベルトに日記を渡していたけれど、これが何かの伏線になるのかと思っていたら、特に何もなくて拍子抜けした。意図がよく分からない思わせぶりなシーンだった。逆に、占いのシーンではブラームスが王冠、ロベルトが棺を出していて、これは後の展開を暗示していた。

ミゲル・デリーベス『赤い紙』(1959)

赤い紙

赤い紙

 

★★★

スペインの地方都市。70歳になって市役所を定年退職したエロイ老人は、妻とは既に死別しており、話し相手と言えば女中のデシーくらいしかいなかった。エロイ老人は写真が趣味で、地元の協会に所属している。一方、デシーは田舎出身で、来た当初は文字もろくに読めなかった。エロイ老人はデシーに昔話をしつつ、単調な老後を過ごす。

エロイ老人が生涯に何らかの主役を務めるのは今夜で三度目だった。初めてのときは自分の結婚式、二度目は一九三三年頃、写真協会に入会したときのことだった。その三年前のある日、友達のペピン・バスケスが定年退職は死への待合室だ、とぞっとするようなことを言った。そのくせペピン・バスケスは待合室には入らず、一九三三年にさっさとあの世へ旅立ってしまった。(p.3)

人生の待合室を描いた小説で、自分の老後について少し考えてしまった。エロイ老人は妻には先立たれ、息子夫婦とは別居し、話し相手と言えば若い女中だけ。彼は写真くらいしか目立った趣味のない孤独な老人だ。ひたすら無為の日々を送りながら、人生の待合室で死を待っている。この生活は今風に言えばスローライフと言えそうだけど、一般的に歳をとればとるほど時間の流れが早く感じるので、そんな生活を送っている暇なんてないと思う。僕だったら悔いのないようひたすらスケジュールを詰め込むだろう。といっても、僕のライフワークは読書とアニメ鑑賞くらいなので、持てる時間をそれらに注ぎ込むくらい。これはこれで周囲から無為な生活だと思われそうだ。ともあれ、どういう老後を過ごすかは現代人の懸案事項であり、若い僕にはまだまだ実感が持てない。たとえば、70歳になったとき、気力と体力はどうなっているのか。今みたいにちゃんと本を読めるだろうか。アニメを飽きずに楽しめるだろうか。理想的なおたくライフを送れるかはまったく不透明だ。だからこそ不安を感じる。

終盤でエロイ老人は、マドリッドで公証人をしている息子に会いに行く。息子は40代でまさに働き盛り。彼は競争社会を生きており、隠居生活をしているエロイ老人とは対照的に描かれている。そもそも老人は公務員で、息子は民間職だから、現役時代でも価値観は違っていた。方や競争しなくていい職種、方や競争しなければならない職種。お互い分かり会えるはずないのである。親子と言っても30歳近く歳が離れているし、従事している職業だってまるで違う。2人の間にはジェネレーションギャップが生まれており、そういう状況を客観的に見れたのは良かった。

女中のデシーが語る大洪水のエピソードが面白い。洪水で家畜が流されていくなか、村の白痴が「雨を降らせ給え、降らせ給え、洞窟の聖母様!」と叫ぶ。村人たちはそれに腹を立てるも、白痴の発作は収まらない。そして、遂に村の狐捕りがぶち切れ、刺又を白痴の腹に突き刺して殺害する。狐捕りは未だに牢屋のなかだ。デシーによると、この事件は1952年に起きたという。その民話的な雰囲気はまるで前近代のようで、時代と乖離した感覚が良かった。こういうのは同時代の英米文学では味わえないと思う。

ジョージ・ソーンダーズ『十二月の十日』(2013)

十二月の十日

十二月の十日

 

★★★

短編集。「ビクトリー・ラン」、「棒きれ」、「子犬」、「スパイダーヘッドからの逃走」、「訓告」、「アル・ルーステン」、「センプリカ・ガール日記」、「ホーム」、「わが騎士道、轟沈せり」、「十二月の十日」の10編。

こんなふうに気分がいいときは、たまに森でぷるぷるふるえてる子鹿ちゃんのことを考える。

まあおチビさん、ママはどうしたの?

わかんないよ、と子鹿はヘザーの妹のベッカの声で言う。

あなたこわいの? お腹がすいてるの? 抱きしめてあげましょうか?

うん、と子鹿は言う。(p.8)

以下、各短編について。

「ビクトリー・ラン」。15歳の誕生日を3日後に控えたアリソンが、男に誘拐されそうになる。それを近所のカイルが目撃して助ける。文体がとても特徴的で、特にアリソン視点の叙述はほとんど岸本佐知子の小説だった。翻訳とはここまで自由にやっていいんだなあ、という感じ。全体としては現実とも空想ともつかない手触りになっていて、一連の誘拐劇がまるで白昼夢のように感じられる。とにかく文体が鮮烈だった。

「棒きれ」。2頁の掌編。父が庭に鉄パイプで作った十字架を設置し、何かイベントがあるごとにそこに飾り付ける。こういう本人にしか価値の分からないものは、多かれ少なかれみんな持ってるのだと思う。そして、本人にしか価値が分からないゆえに、死後はあっさり廃棄される。それが人生。

「子犬」。裕福な主婦のマリーが、子供たちを連れて売りに出されていた子犬を見に行く。ところが、現場に到着して辺りを見たマリーは買うのを断る。これは子犬の売買を通して格差社会を描いているのだろう。子犬の売り主は育ちの悪い家庭で、子供をハーネスで拘束している。おまけに余計な犬猫は子供たちに処分させていた。農場育ちなら当たり前らしいけど、それでも他所に通じる価値観ではない。家庭とはひとつの小さな独立国で、子供たちはそれに抗えないわけだ。

「スパイダーヘッドからの逃走」。囚人のジェフは薬物を注入され、女の囚人とセックスをする。その施設は薬物によって愛を作ったり消したりする実験をしていた。何でもかんでも薬物で解決するあたり、現代医療の闇を見ているような気分になるけれど、それにしても印象的なのが、囚人たちが倫理的な人物であることだ。むしろ、彼らをモルモットにしている科学者のほうが犯罪者っぽい。この世には、悪いことをして裁かれる人間と裁かれない人間がいるということか。

「訓告」。事業本部長による訓告メール。プロテスタントの倫理と日本人の労働観は親和性が高いと常々思っていて、だから日本はGHQの支配も滞りなく受け入れられたのだと思う。方や宗教によって駆動し、方や道徳によって駆動する。仮に日本国憲法を改正するとしたら、僕は第27条を削除したい。

「アル・ルーステン」。チャリティーショーに参加したアル・ルーステンが、控室で名士の私物を蹴っ飛ばして台の下に滑り込ませてしまう。そこから色々と空想を巡らす。アル・ルーステンは何となく冴えない男のように見えるけれど、客観的に判断すれば、店の経営者であるし、自己肯定感もそこそこ高いので、そこらの庶民より恵まれている。日本の氷河期世代と違って悲壮感がない。まだまだ可能性があるように見える。そういう人物でも上を見てしまうとキリがないのだ。幸福には絶対的幸福と相対的幸福の2種類があると思う。

「センプリカ・ガール日記」。40歳の所帯持ちの男が、後世の人に向けて日記を書く。彼は中流の家庭ではあるものの、知人の金持ちに嫉妬しており、娘の誕生日についてあれこれ心配している。そんななか、スクラッチくじで1万ドルを当てることでポジティブに。なるほど、我々は勝ち組になりたいんじゃなくて、勝ち組だと周囲に思われたいんだ。SNS学歴詐称をする人なんてその最たる例である。あと、男は後世の人に向けて日記を書いているけれど、後世の人は絶対にこの日記を読んだりしない。僕も含めて、ものを書く人間はその誤謬に気づかないまま延々と無駄な文章を書いている。

「ホーム」。帰還兵のマイクが故郷に戻ると、母は新しい男と同居していた。一方、妹は豪邸で夫と赤ん坊の3人で暮らしている。ある日、マイクたちは家賃滞納で家を追い出されることに。マイクは帰還兵だから表向き敬意を払われているけれど、手厚い社会保障を受けているわけでもなく、命を賭けただけ損したような状況になっている。SNSを観測していると、ある種の恵まれない人たちは「みんな死ねばいいのに」と世界を恨む発言をする。僕はそれを見て「お前が死ねよ」と心のなかでつぶやく。そいつのわがままが許せないのだ。マイクが陥っている状況も、世界を恨む人間のそれであり、なるほど、こういう経緯で人は自暴自棄になるのかと納得した。

「わが騎士道、轟沈せり」。演劇のアトラクション施設で働くテッドが、上司にレイプされた後の同僚マーサを目撃する。翌日、その上司に言い含められてテッドとマーサは昇進するのだった。配給された薬を飲んで仕事に臨んだテッドは……。薬を飲んでから文体が変わるところが見どころで、世界に対する認識の変化をこのような形で表現したのが興味深い。「ビクトリー・ラン」と同じくらい訳者の個性が突き抜けている。

「十二月の十日」。ロビン少年が湖畔で遊んでいるとベンチにコートがあった。少年はコートの持ち主を救出に向かう。一方、コートの持ち主は病に冒されて自殺しようとしており……。2つの異なる視点から物語を進め、それらを交差させてある種のインパクトを起こす。それが著者の十八番だろうか。2人とも個々人ではありふれた「負け犬」かもしれないけれど、彼らが出会って化学反応を起こすことで気の利いた物語になる。

金庸『射雕英雄伝』(1957,1976)

射雕英雄伝―金庸武侠小説集 (1) (徳間文庫)

射雕英雄伝―金庸武侠小説集 (1) (徳間文庫)

  • 作者:金 庸
  • 出版社/メーカー: 徳間書店
  • 発売日: 2005/07/01
  • メディア: 文庫
 

★★★★

南宋の時代。生前に父を殺された郭靖は蒙古で生まれ、そこで江南七怪によって武術の手ほどきを受ける。郭靖は約定により、18歳になったら自分と同年の少年と武術勝負をすることになっていた。相手の少年は父の義兄弟の息子で、母と共に金国に連れ去られている。一方、蒙古では後にジンギスカーンとなるテムジンが勢力を拡大していた。

「わしは一生、天下をかけめぐり、無数の国を滅した。そのわしが英雄ではないじゃと? ふん、なにをたわごとを申す!」

そう言って、ジンギスカーンは馬に鞭を当て、帰って行った。

その晩、ジンギスカーンは、ついにこの世を去った。臨終の際、最後の最後まで、

「英雄、英雄……」

とつぶやきながら。(第5巻 p.290)

全5巻の大長編。ハードカバー版で読んだ。引用もそこから。

大長編は頭から尻尾まで万遍なく面白いものと、話が進むににつれて尻上がりに面白くなっていくものの2種類があるけれど、本作は後者だと思う。1巻から3巻までは通常のペースで読んだのに対し、4巻と5巻はほぼ一気読みだった。尻上がり型の構成という意味では、『モンテ・クリスト伯』に近い読み味だったかもしれない。

武侠小説ということで、本作は武術の達人たちとの関わりがメインになっている。最初は弱かった郭靖も、様々な師匠に教えを乞うことで強くなっていくのだ。格闘シーンは専門用語(造語)の羅列で押し切る比較的シンプルなもので、この辺は現代の日本のラノベに通じるところがある(たとえば、山田風太郎忍法帖シリーズが機知に富んだ能力バトルなのに対し、本作はもっと単純な技芸勝負である)。敢えて描写を控えめにすることで、読み手にかかる負担を軽減しているというわけ。一方、特徴的なのがプロットの作り方で、郭靖が常に誰かと誰かの板挟みになって行動が制限されたり、誤解によってあらぬトラブルに巻き込まれたりするところは水戸黄門ばりだった。恋愛関係にしても、師弟関係にしても、敵対関係にしても、万事がこれである。まさにお約束の世界。ただ、こう書くと似たような展開で飽きそうだと思われるけれど、そこは各プロットともに巧妙な論理でコンフリクトを解消していて、膝を打つことしきりだった。危機の作り方、そして、そこからの抜け出し方が巧みである。また、本作は広大な大陸のあちこちを舞台にしていて、古き良き冒険小説みたいな面白さもあった。

基本的には爽快な娯楽小説ではあるけれども、作中には様々な哲学が込められていてなかなか侮れない。人は誰もが死ぬのだから仇討ちに意味はあるのかとか、人を殺すための武術に価値はあるのかとか、人をたくさん殺した君主は英雄ではないとか。こういう倫理的な価値基準が作中に通底しているため、現代の読者でも違和感なく読むことができる。特に終盤のジンギスカーン批判が毛沢東批判になっているという訳者の指摘には目から鱗が落ちた。人殺しを英雄視することに疑義を呈するのは、墨子非攻に連なる考え方であり、本作には中国四千年の叡智が宿っている。

郭靖が融通の効かない朴訥なキャラであるところには賛否両論あるだろう。この部分はプロット作りの要ではあるにしても、その性格ゆえに物事が上手く進展しないところは読んでいてやきもきした。