海外文学読書録

書評と感想

浦山桐郎『キューポラのある街』(1962/日)

★★★

埼玉県川口市キューポラという煙突が立ち並ぶ鋳物の町。中学生のジュン(吉永小百合)には職人の父・辰五郎(東野英治郎)がいたが、その父が職場をクビになってしまう。若い工員の塚本克巳(浜田光夫)が組合入りを勧めるも拒否する。一方、ジュンの母・トミ(杉山徳子)が出産、一家は6人家族になるのだった。ジュンは高校進学を希望しているが貧困でどうしようもなく……。

原作は早船ちよの同名小説【Amazon】。

戦前のプロレタリア文学みたいだった。貧困に由来するギスギスした家庭の描写がきつい。しかも、当時は体罰が当たり前で父が妻子を殴っている。ただ、そういうシーンがありながらも思ったほど湿り気はなく、みんなたくましく生きている。そして、労働者を賛美しつつ在日朝鮮人の帰還事業を絡めたのは意図的だろう。マルクスは宗教を「大衆のアヘン」と表現したが、同じことは共産主義にも言える。当時の観客が本作に感動していたとしたらちょっとやばい。現代人からすると、高度経済成長期にそぐわないアカ臭いところが引っ掛かる。ニッポンが誇るモノづくりも裏側には闇を抱えていたわけだ。本作は当時の世相が垣間見えるところはいいが、今となっては黒歴史のような気がする。

ジュンが全日制高校への進学を諦めて定時制高校を志望するのがきつい。それも自発的にである。彼女は当初、浦和第一女子高を志望しており、教師から合格できるだろうとお墨付きを得ていた。調べてみると高校の偏差値は72である。当時もそのレベルだったかは分からないが、成績優秀であることは間違いないようだ。そんな彼女が共産主義に被れて働きながら定時制に通うことになる。その際、「一人が五歩前進するより、十人が一歩ずつ前進するほうがいい」と言うのだから狂っている。こういう悪しき平等主義が個人の幸福を抑圧し、現代の「平等に貧しくなろう」(上野千鶴子が2017年2月11日付の中日新聞に発表した文章)に繋がるのである。民主主義国家に生きる我々には幸福を追求する権利がある。他人に迷惑をかけない範囲で。それを根本から否定する思想はさすがに受け入れられない。平等に貧しくなるくらいなら新自由主義のほうがまだマシだろう。十人が一歩ずつ前進するよりも、一人が五歩前進するほうがよっぽどいい。思うに資本主義と共産主義はどちらも極端すぎる。両者の中間項が欲しいところだ。

ジュンの父親は昔気質の職人である。新しい工場に転職するも、機械のオートメーション化についていけなくて辞めてしまった。若造にアゴでこき使われるのにも嫌気が差したようである。彼は仕事も家庭も考え方が保守的で典型的な老害だ。小学生の長男(市川好郎)が高校進学を希望した際、「ダボハゼの子はダボハゼだ」と言い放ち、中学を出たら鋳物工場で働くことを要求している。貧困家庭の子は高校に行けない。高校に行けないから賃金の安い職業に就くことになる。そうやって貧困が再生産されているのだ。こういう家庭を見ると我がことのように心が痛む。やはり親ガチャは大切だ、と。自分は中流家庭に産まれて良かったとつくづく思った。

主演の吉永小百合は当時17歳。この若さでこれだけ堂々と演じられたらもう言うことがない。現代の子役よりもレベルが高いのではないか。ほとんど彼女のワンマンショーだった。

パティ・ジェンキンス『ワンダーウーマン』(2017/米=中国)

★★

アマゾン族の王女ダイアナ(ガル・ガドット)は女性だけの島セシミッラで暮らしていた。島民は軍神アレスの襲撃に備えて武装している。そんななか、島にスティーブ・トレバー(クリス・パイン)が迷い込んでくる。折しも外の世界は第一次世界大戦。トレバーは米軍でスパイの任務に就いていた。ダイアナは戦争を終わらせるためトレバーと外の世界に旅立つ。

ガル・ガドットのルックスがいいところ以外はほぼ見るところがなかった。島から出るまで40分もかけているのが長すぎるし、ラスボスとのバトルもしょぼい。映像も最近の映画らしく変なフィルターがかかっていて違和感がある。映画を見ているというよりはゲームを見ているような感じだった。

女性ヒーローが主人公の場合、女性性をどう扱うのかが難しいような気がする。女性性を前面に出すとPCにそぐわないし、かといって丸っきり無視するわけにもいかない。女性だけの島セシミッラは、マッチョな価値観が浸透していてほとんど男性的だ。島民はみな武装して暴力に秀でている。彼女たちは神によって人間離れした膂力を与えられていた。その一方、どうやって生殖しているのかは分からない。ダイアナはゼウスと女王の子供らしいからおそらく有性生殖なのだろう(当初、粘土から造られたと説明された)。しかし、そうするとどうやって現在の人口を維持しているのか分からない。島は霧によって隠され、外の世界から人が来ないから男は供給されないのである。ダイアナによると、快楽のためのセックスはある。しかし、生殖のためのセックスはあるかどうか分からない。ここをはっきりさせると都合が悪いから敢えて伏せているような印象だ。しかもそれでいて、どうやら母性はあるようなのである。ロンドンに出たダイアナは路地で出会った赤ん坊を可愛がっていた。方や暴力に秀でた男性性。方や平和を愛する女性性。まるで男性と女性のいいとこ取りをしているようである。

ラスボスの軍神アレスが神のくせに弱いのだが、ギリシア神話でも弱かったので史実通り(?)といったところだろう。神を倒せるのは神、もしくはゴッドキラーという武器だけなので人間には倒せない。だから人間よりは確実に強い。しかし、ダイアナは神の子なのでアレスを倒せるのだ。ラスボス戦はあることがきっかけでダイアナが覚醒する。クリリンの死で覚醒した孫悟空のようにパワーアップする。そのおかげでワンパン勝利するのだから安っぽい。ラスボス戦は大雑把すぎてアクションシーンの中でもいまいち印象に残らなかった。

一番良かったシーンは、塹壕戦の最中、ダイアナが盾で弾丸を防ぎながら敵陣に突撃するシーン。ダイアナには近代兵器が効かないのだという凄みがある。腕の防具でも弾丸を弾いていたし、総じて抜群の反射神経を見せつけるところがいい。1対1のバトルより戦場での立ち回りのほうが見応えがあった。

ドクター・ポイズン(エレナ・アナヤ)が防毒マスクで防げない新型の毒ガスを開発する。それをダイアナに使うのかと思いきや、休戦協定を結ぼうとする味方軍人に対して使っていた。以降、その毒ガスは物語から消える。この毒ガスをもう少し有効活用してほしかった。同時に開発した強化ガスも出番は一瞬だったし。ドクター・ポイズンはダイアナと対比させるための女性だが、いまいちその役割を果たしていなかった。

澤田幸弘『反逆のメロディー』(1970/日)

★★★

淡野組が解散してフリーになった哲(原田芳雄)は、立花組が取り仕切る地方都市に行く。ところが、当地では立花組の上に矢東会が君臨していた。哲はゲバ作(佐藤蛾次郎)という流れ者と一緒になり、立花組から矢東組を排除する。矢東組の幹部・星野(地井武男)は哲を敵視。また、淡野組の元組長(須賀不二男)を付け狙う滝川(藤竜也)も登場する。亜紀(梶芽衣子)は星野の愛人で……。

『野良猫ロック 暴走集団'71』原田芳雄が主演になったのは本作の影響っぽい。素肌にGジャン、伸ばしっぱなしの髪(もみあげがやばい!)、若者向けのサングラス。そんな出で立ちでジープを乗り回している。アメリカン・ニューシネマのアウトローみたいでめちゃくちゃ格好いい。そりゃ彼みたいな新時代のシンボルが出てきたら主演に据えるしかないだろう。やくざ映画なのに主演がやくざに見えないところがまた面白いのだ。そして、例によって終盤の討ち入りも拳銃ではなく刃物を使っている。アクションもなかなかだった。

地井武男は今まで見てきた中で一番いい。やくざを演じているのだが、本当にやくざにしか見えなかった。あんなオラついた態度ですごまれたら小便をちびってしまう。若者らしく常に何かに苛立っていて反骨精神が旺盛。しかもそれでいて、ダチと認めた者には義侠心を発揮する。男が男に向かって「お前が大好きなんだよ」と言うのはすごすぎる。我々のような凡人では恥ずかしくて口に出せない。彼が原田芳雄と腕時計を交換するシーンは名シーンだろう。死に際でもダチのことを気にしているのが良かった。

佐藤蛾次郎原田芳雄の相棒役としてキャラが立っていた。住所不定無職。分かっているのは故郷が北海道室蘭市ということだけ。バイクで流れてその日暮らしの刹那的な生き方をしている。そんな彼にも若者らしい破壊衝動があった。トルコ風呂に強盗に入った際は嬉しそうな顔をしてダイナマイトを爆発させている。彼も原田と同様、アメリカン・ニューシネマのアウトローなのだ。ポジションとしては地井武男が仲間になったあたりでお役御免になってしまうが、それでもちんちくりんな風貌ゆえか、相棒としての爪痕は残している。地井武男と同じくらい彼も素晴らしかった。

藤竜也梶芽衣子はいつも通りだった。特筆すべきは梶芽衣子地井武男の間にベッドシーンがあることで、そういうシーンもできるのかと思った。梶芽衣子が男同士の絆を認め、男女の仲はあっけないと去っていくシーンは忘れられない。本作はやくざ映画であると同時に若者映画であり、また、男同士の絆を描いた映画なのだ。現代ではホモソーシャルが忌避される傾向にあるが、やはり男同士の友情は尊いのである。上部構造であるやくざ社会が腐っているからこそ個人間の友情が輝く。本作は原田芳雄佐藤蛾次郎地井武男の関係が良かった。

木原というマル暴の刑事を青木義朗が演じている。マル暴らしく強面で迫力があった。やくざと渡り合うにはこれくらい貫禄がないといけないのだろう。本作は原田芳雄を始めとして全体的に俳優陣がすごい。正直、ストーリーはどうでもよくて、ただただ俳優の格好良さを堪能した。

中平康『牛乳屋フランキー』(1956/日)

★★★★

長州から堺六平太(フランキー堺)が上京し、遠縁の杉香苗(坪内美詠子)が営む牛乳屋を手伝う。杉の店は学生の石山金太郎(市村俊幸)から借金していた。六平太は配達の最中に様々な人たちと知り合う。そんななか、ライバルのブルドッグ牛乳の親父(柳谷寛)と人使いの荒いマサヨ(利根はる恵)が現れ……。

矢継ぎ早にネタが繰り出されるスラップスティック・コメディ。とても面白かった。監督の中平康『狂った果実』でデビューして本作が同年公開の第4作になるが、こちらのほうが遥かに完成度が高い。彼は時代の切り取り方が独特で、シリアスもできればコメディもできる稀有な監督である。どの映画もユーモアとペーソスを備えていて、作品によってその配分が違っている。本作はユーモアに振り切った快作といった感じだ。中平康は日活プログラムピクチャーの監督の中でもセンスが際立っていて一番好きかもしれない。

狂った果実』を撮った監督が太陽族をネタにしているところが面白い。登場人物の石山金太郎は石原慎太郎をもじった人物である。ただし、石原慎太郎とは似ても似つかない巨漢だ。食べる飯の量が半端ないし、牛乳も1リットルくらいの大瓶で飲んでいる。そんな彼はヘアスタイルを慎太郎カットならぬ金太郎カットにするのだった。他にも『太陽の季節』や『狂った果実』を直接出して太陽族を茶化している。どちらも日活で映画化されているから楽屋ネタだ。こういった楽屋ネタは他にもあって、映画撮影のシーンでは日活ならぬ頓活も出てくる。その際、臆面もなくインディアンを出していて苦笑した。当時はまだ大丈夫だったということだろう。お笑いも時代によってできるネタとできないネタがある。そういう水物を楽しめるのが映画のいいところである。

笑えたネタ。宮城(きゅうじょう)に行くと言ってタクシーに乗ったら後楽園球場に着いた。驚く六平太に対し、今は宮城ではなく皇居だよとツッコミが入っている。六平太が階段を転げ落ちるシーン。転げた方がめちゃくちゃ上手くて芸術的だった。西郷隆盛のそっくりさんである南郷隆盛(四代目澤村國太郎)の登場。しっかり犬を連れている。出オチかと思いきや本筋にしっかり絡んできた。団地の階段を駆け上るシーン。早回しとはいえ、2セットも繰り返していて大変そうだった。泡風呂に入っているマサヨとのやりとり。ここはちょっとくどかったが、10円玉を入れるガスコンロが目を引いた。調べたら山谷の簡易宿泊施設に今でもあるらしい。まさに昭和の文化財である。牧場に見学に行くシーン。ミュージカルから西部劇に様変わりするところが出色だった。

フランキー堺一人二役を演じているが、終盤ではその2人が同じフレームに入っている。合成なのは明らかだが、全然違和感がない。2人同時に動いており、演技も映像も自然である。当時の技術でどうやって合成したのだろう? また、自転車で競争するシーンがあったが、ここのカメラワークとカット割も良かった。横から追いかけるアングルではバイクで並走しているはずなのに、画面が安定していて意外である。このシーンは中距離で撮ったり、ローアングルで見せたり、カメラワークが素晴らしい。映像面で一番良かったのはここだった。

本作には豊頬手術前の宍戸錠が出てくる。細身のイケメンでびっくりした。こんなイケメンでも顔に手を入れないと主演になれないなんて映画業界は厳しすぎる。

鈴木清順『すべてが狂ってる』(1960/日)

★★★

高校生の杉田次郎(川地民夫)は地元の不良グループに所属している。次郎はシングルマザーの家庭で育ったが、母・昌代(奈良岡朋子)は南原(芦田伸介)という男の世話を受けていた。次郎は南原のことを嫌って何かと母を責めている。また、次郎は不良グループの敏美(禰津良子)から好意を寄せられるが、彼女に酷いことをする。

原作は一条明『ハイティーン情婦』。

けっこういい感じのヌーヴェルヴァーグ川地民夫の若さが横溢しているのが良かった。ちょい役の吉永小百合も美人で目立っている。不良グループが野良猫ロックのそれと全然違うところも面白い(10年違うだけでこんなに違う!)。ただ、個人的には手持ちカメラをぐりぐり動かすのは勘弁してほしかった。焦点が定まらないから落ち着かない。画面酔いするほどではなかったけれど。

次郎のマザコンぶりが常軌を逸していて、彼は愛する母が南原と付き合っているのが許せない。10年もの間生活を支援してくれたのに敵意を剥き出しにしている。彼が不良になったのもここに原因があるのだろう。母が女であることを認められないのだ。ただ、この気持ちはちょっと分かる。自分の母が女の部分を出しておじさんと交際していたら気持ち悪いと思う。そういうのは自分が自立した後にやってほしいなあ、と。思春期の子供にとって母と女は両立しない。この辺は親世代に配慮が足りなかった。

本作は戦中に青春を送った世代と戦後に青春を迎えた世代の対比がある。戦中世代には自由がなかった。困窮しているから助け合う必要があり、昌代と南原はその縁で知り合った。一方、戦後世代は自由を持て余している。サルトルは「人間は自由の刑に処せられている」 と言った。生きる目的は自分で見つけなければならないし、人生で直面する重大な出来事も自分で決断しなければならない。戦中世代のように天皇や国家が決めてくれるわけではないのだ。次郎が迷走しているのも自由であるがゆえだろう。感情に任せて突き進むも何か目的があるわけではない。行き場のない若者にとってはお定まりの不良行為に走っている。戦中世代はそんな彼らを遠巻きにして見守っているが、それで何かが解決するわけでもなく、世代間の分断が進むだけだった。世の中には自由の重みに耐えられない人もいるわけで、一概に自由がいいとは言い切れない。本作の不良グループを見ていると、子供を健全に自立させるのは難しいと痛感する。

メインのプロットに悦子(中川姿子)のプロットを絡ませたのが上手かった。妊娠が発覚した悦子は子供を堕ろすために奔走する。彼氏には迷惑をかけたくないから秘密裏に。それが南原を誘惑するところから病院で流産するところまで、メインのプロットを刺激するようになっているのがいい。後者では次郎に暴行されて負傷した南原が同じ場所に担ぎ込まれていて、こういう重ね方はよく出来ていると感心した。

それにしても、ヌーヴェルヴァーグって「大人は判ってくれない」という話になりがちでは。そりゃまあ、親子ほど歳が離れてたら分かり合えないけど。あと、なぜか知らないが主人公が交通事故で死ぬ。判で押したかのように。