海外文学読書録

書評と感想

是枝裕和『怪物』(2023/日)

怪物

怪物

  • 安藤サクラ
Amazon

★★★★

シングルマザーの麦野沙織(安藤サクラ)は小学5年の息子・湊(黒川想矢)と2人暮らしだったが、息子が担任の保利道敏(永山瑛太)から暴力を受けていると聞いて学校に乗り込む。ところが、学校側はのらりくらりと躱して手応えがない。一方、奏には星川依里(柊木陽太)という友達がいたが、依里はクラスの男子たちから虐められている。

羅生門スタイルによる三部構成は各自の視点の相違が強調され、最後に物事の全体像がクリアになるところにカタルシスがあった。しかし、後から考えると沙織と学校側の直談判は観客を引っ掛ける意図が露骨すぎた。特に保利の不誠実な挙動が誇張されていて、話し合いの最中に飴を舐めさせたのが腑に落ちない。だから視点が変わって実はいい教師だったと手のひら返しをしたのが作為的に感じるのだ。確かに彼は変人だ。誤植を見つけて出版社に報告するのが趣味だし、恋人には夜景のことをただのフィラメントと言ってノンデリぶりを発揮している。当初は多様性サイドの人間かと疑ったが、学校ではすこぶるまともな教師だった。だから沙織視点でのあの挙動が露骨なミスディレクションに見えてしまう。不誠実なのは登場人物ではなく、脚本を書いた坂元裕二ではないかと勘繰ってしまう。確かにギャップを作らないと視点を変えたときに驚きがなくなるが、かといってそのために不自然な行動をとらせるのもおかしい。羅生門スタイルが本当に良かったのか疑問だった。

沙織と学校側の直談判はカフカ的であり、我々が教育現場に抱くステロタイプをそのまま表現している。学校側は形だけの謝罪をして責任をとろうとしない。校長(田中裕子)は自我を失った人形のように沙織と接している。一方、学校側からすると保護者はモンスターだ。一時期モンスターペアレントという言葉が流行ったように、教師から見て保護者は厄介なクレーマーでしかない。校長の不誠実な対応も学校を守るためだった。こういった分かり合えない関係を物事の裏と表から映し出したところは良かった。

依里がLGBTなのかは判然としない。小学5年生だから性的に未分化なだけという気もする。ただ、その性的指向ゆえに父親(中村獅童)から虐待され、クラスの男子たちから虐められているのは事実だ。周囲は男の子に「男らしく」あることを望む。また、沙織も息子に対して「普通の家族」であることを望んでいる。みんな悪気はないのだろうが、「普通」からはみ出した異物は否応なく排除されてしまうのだ。最近はSNSでTERF(トランス排除的ラディカルフェミニスト)が暴れている。「性別は二つだけ」という理屈でトランスジェンダーを攻撃している。そんな彼らも本作を見たらその主張を引っ込めるしかなくなるだろう。物語には他人の立場を想像させる効果がある。

とはいえ、無垢な子供をダシにしているところは引っ掛かる。我々がLGBTを嫌うのは彼らが「気持ち悪い」からだが、子供が演じることでその嫌悪感はだいぶ軽減されているし、むしろ「気持ち悪い」と思うことに罪悪感を抱かせるよう仕向けている。これはちょっとずるいのではないか。また、嵐によってすべてのいざこざが洗い流され、奏と依里は手を携えて野山を駆けていく。こういった光景が様になるのも2人が子供だからだろう。汚いおじさんが演じるのとは訳が違う。この辺はルッキズムに頼っている感じがしてもやもやした。

映像は相変わらずリッチで手間をかけて撮っているのが伝わってくる。生活感と清潔感を上手く両立させていた。

アレックス・ガーランド『シビル・ウォー アメリカ最後の日』(2024/米=英)

★★★★

大統領が異例の3期目に突入し、FBIも解散させた。それに反発した州が合衆国から離反して内戦状態になる。戦場カメラマンのリー(キルスティン・ダンスト)と記者のジョエル(ヴァグネル・モウラ)は、大統領にインタビューすべくニューヨークからホワイハウスに向かうことに。老記者のサミー(スティーヴン・ヘンダーソン)と新米カメラマンのジェシー(ケイリー・スピーニー)も一行に加わる。

ジャーナリスト視点のロードムービー。上に貼ったタイトル画像で分かる通り、明らかに『地獄の黙示録』を下敷きにしている。基本的には内戦によって一変したアメリカの風景を映していくが、中には平穏を保った町もあって一筋縄ではいかない。また、戦時下のせいか頭のおかしい人間が野に解き放たれていて、一行は命の危機に晒されることになる。本作はこういった非日常を旅行者の視点で切り取っているところが肝だろう。丸腰の彼らは暴力に対して無力だ。だから銃を持った人間と対峙すると途端に緊張が走る。無秩序な世界では何が起きるか分からないわけで、地味なルックのわりに意外とスリリングだった。

赤いサングラスの男が強烈な印象を残す。彼はライフル銃を持ち、相棒と重機で大量の死体を埋めようとしている。2人でそれだけの人数を殺したのか、道端の死体を集めたのかは定かではないが、人を殺すことに躊躇いがないのは確かだ。当初はその動機が分からない。ところが、リー一行が銃を突きつけられながら出身地を答えると、赤いサングラスの男はアメリカ人らしくない者を殺害しているようだった。実際、リーの仲間で「香港」と答えた者は容赦なく射殺されている。内戦による秩序の崩壊でこういったレイシストが野放しになっているのが恐ろしい。彼はトランプ政権下におけるアメリカ人の象徴だった。

報道の仕事は記録に徹することだという。ベテランのリーは新米のジェシーにそう教える。たとえば、目の前で非人道的なことが行われても迷わずシャッターを切る。無理に助けようとはしない。それは武器を持ってない自分の手に余るからだ。記録して世に広めることがジャーナリストの仕事であり、そうすることで祖国に警鐘を鳴らすのである。リーのプロフェッショナルぶりには頭が下がるが、皮肉なことに土壇場でそれが崩れてしまう。

どれだけ非情になれるかが戦場カメラマンの資質だとすると、リーよりジェシーのほうが資質があったのだろう。というよりはベテランのリーがこの仕事に疲弊して判断を誤り、新米のジェシーは成長してこの仕事に順応したのだ。ピークにいた人間とこれからピークに達しようとする人間、両者の対比がここにある。もしリーがピークのままだったら同僚の死に動揺しなかったし、後輩を庇って銃弾を浴びもしなかっただろう。ギリギリのところで見せた弱さ――人間性――が死に直結する。こういったシナリオはよく出来ていた。

登場人物がシャッターを切るタイミングで静止画になる演出が良かった。現実を切り取るカメラマンの仕事をひと目で分からせている。また、戦争の背景を多く語らず、必要最小限に留めているところも好感が持てた。設定というのは仄めかす程度のほうが想像の余地があっていい。この辺はさすがアメリカ映画だった。

ジョン・M・スタール『哀愁の湖』(1945/米)

哀愁の湖(字幕版)

哀愁の湖(字幕版)

  • ジーン・ティアニー
Amazon

★★★

エレン(ジーン・ティアニー)が流行作家のリチャード・ハーランド(コーネル・ワイルド)と結婚する。エレンには妹ルース(ジーン・クレイン)がおり、リチャードには弟ダニ―(ダリル・ヒックマン)がいたが、エレンは夫の愛を独占すべくとんでもないことをする。一方、エレンの元婚約者ラッセル・クイントン(ヴィンセント・プライス)は地方検事になるのだった。

原作はベン・エイムズ・ウィリアムズの同名小説【Amazon】。

女性の異常心理を描いているが、後年のニューロティック・サスペンスと違って淡々としている。特にスリルを煽ったりもしない。テクニカラーの人工的な色彩と相俟っていかにも古典という感じだった。

エレンがリチャードに惚れた理由は彼が父親に似ていたからだ。エレンの父親は最近亡くなっている。エレンにとってリチャードとの出会いは渡りに船だったのだろう。彼女は婚約者がいるにもかかわらず、リチャードとの結婚を決めている。ところが、エレンは人一倍独占欲が強かった。これは後に明かされるが、彼女は父親のことを愛しすぎたゆえに死に追いやっている。その欠点は彼女の人格の本質として深く刻まれており、決して修正されることはない。むしろ段々とやることがエスカレートしている。ダニーを見殺しにしたのは受動的な行為だが、その後赤ん坊を流産させたり、自分の命と引き換えにルースを嵌めたりしたのは極めて能動的な行為だ。すべてはリチャード(=父親)の愛を独占するため。典型的なエレクトラコンプレックスである。このような図式になっているのはユングを参考にしたのか、あるいは偶然なのか。いずれにせよ、エレンのやっていることは心理学的に興味深い。

序盤に出たきり影も形も見せなかったクイントンを終盤で再登場させ、八面六臂の活躍をさせたのはよくできている。裁判のシーンはほとんど彼が主役である。検事のクイントンは被告や証人を厳しく追求する。その様子があまりに凄まじく、アメリカの刑事裁判に対して恐怖をおぼえた。僕が被告だったらとてもじゃないが耐えられないし、質問されてもびびって何も答えられないだろう。クイントンがあそこまで苛烈なのはおそらく陪審制だからで、陪審員向けに分かりやすくパフォーマンスしている。被告を「悪」と印象づけている。言ってみれば素人向けのプレゼンである。クイントンは被告を土俵際まで追い詰めるが、証人が決定的な証言をしたことですべてが覆ってしまう。こういったところもよくできていた。

リチャードにとってエレンは間違った相手で、すべてが終わった後ルースと結ばれる。本当のヒロインはルースだったのだ。しかし、ルースは曲がりなりにもエレンの妹だし、よく考えたら浮気の延長上みたいな形で結ばれている。要はハッピーエンドのための駒にしか見えない。この辺はハリウッド映画の限界に思えた。男女が結ばれて大団円というのは安直にもほどがある。

テクニカラーの映像は色味が不自然で見ていて違和感があった。特に人物の顔が人間ではなく人形に見える。カラー黎明期の徒花といった風情の色彩だった。

プレストン・スタージェス『結婚五年目(パームビーチ・ストーリー)』(1948/米)

結婚五年目(字幕版)

結婚五年目(字幕版)

  • C.コルベール
Amazon

★★★★

ジェリー(クローデット・コルベール)とトム(ジョエル・マクリー)は結婚して5年目。トムは発明家をしているが結果が出ず、家賃も払えない有り様だった。自分が足を引っ張っていると考えたジェリーは、離婚すべくフロリダのパームビーチへ向かう。一方、トムも後を追うのだった。現地ではジェリーが大富豪のJ・D・ハッケンサッカー3世(ルディ・ヴァリー)に、またトムがハッケンサッカーの姉センティミリア公爵夫人(メアリー・アスター)に見初められる。

初公開時の邦題が『結婚五年目』。再公開時の邦題が『パームビーチ・ストーリー』。現在は後者のタイトルで流通している。

話の論理がめちゃくちゃだが、それでも前に進めていく剛腕ぶりがすごかった。たとえば、ジェリーがトムと離婚する理由。トムが嫌いだから別れるのではなく、トムのためを思って別れるというのだ。まったくもって意味が分からない。また、家を出たジェリーは通りがかりのタクシー運転手に「離婚するならどこがいい?」と聞く。普通だったら役所の場所を教えるはずだが、運転手はなぜかパームビーチと答えるのだった。パームビーチは金持ちのための保養地なのになぜ? そして極めつけは反則としか言いようがないオチで、ハッケンサッカーとセンティミリアはそれでいいのかと思う。というのも、彼らのお相手は外見は同じでも中身は違う別人なのだから。双子はコピー人間ではない。とはいえ、この破綻した論理が面白みに繋がっていることは確かで、『レディ・イヴ』よりもだいぶ楽しめた。

列車で大暴れする狩猟クラブの老人たちが強烈で、そのアナーキーぶりは常軌を逸していた。最初は会員2人が発砲して窓ガラスをぶち破るだけだったのに、そのうち大勢の人たちが射撃大会のように撃ちまくっている。さらに、彼らは陽気に歌いながら猟犬を連れて寝台車に乗り込んできた。車内の秩序は崩壊し、無政府状態に陥っている。彼らの無軌道な盛り上がり方はまるで躁病である。民衆の叛乱というべきこの状況は彼らの乗った車両を切り離すことで解決するが、あの騒乱は閉鎖空間を狂気が支配していて怖かった。コメディを突き詰めるとホラーになるのかもしれない。

ジェリーとハッケンサッカー、トムとセンティミリアとあべこべのカップルができる。このねじれた関係をどうやって正常に戻すのかが終盤の課題だ。こういった状況設定はコメディの王道だが、しかしジェリーとトムが元鞘に戻るロジックが変わっている。というのも、ハッケンサッカーの歌声をサブテクストにして正気に戻ってしまうのだ。ホテルの中庭に楽団を用意して朗々とおやすみの歌を歌うありさまは最高に映画的であり、実際にあんなことをされたら百年の恋も冷めてしまう。他人の滑稽さを見て自分の滑稽さに気づくことは往々にしてある。あのハッケンサッカーは恋に狂った我々の写し絵だった。

トム役のジョエル・マクリーが階段落ちを披露しているが、『牛乳屋フランキー』のフランキー堺に比べると全然甘かった。フランキー堺は階段落ちの天才だと思う。また、本作はテキサスのソーセージ王(ロバート・ダドリー)が強烈な印象を残す。ジェリーとトムにそれぞれ無償で資金を提供していて、そのATMぶりによって物語を前に進めていた。彼は『ツイン・ピークス』のデヴィッド・リンチのようなアクの強さも兼ね備えている。主役を食うほどのバイプレーヤーだった。

2024年11月に読んだ本

こうして本を読んでいるのも自分の書くものに厚みをもたせるためだが、本選びがそのときの好奇心に左右されてしまうのが欠点だと思っている。もう少し一貫性を持たせたい。

とはいえ、ひらめきは乱読からしか生まれないのも確かだ。遠回りしているようで実は近道を進んでいるのかもしれない。

元は1997年に出版された本。2005年にちくま文庫、2015年にちくま学芸文庫になった。

当時の知識人には、日本が戦争のけじめをつけてないことに苛立ちと後ろめたさがあったようだ。それは謝罪や追悼のみならず、憲法にまつわる言説にも表れている。日本人は戦争のけじめをつけないまま、ずるずると戦後50年を迎えてしまった。敗戦によって日本社会はねじれた。それまで「正義」だったことが「悪」になり、「義」を信じて戦った兵士の死は無意味となった。そのねじれをどう解消するかが当時の課題だったようである。

ところが、戦後80年を迎えようとする現代人にとっては、もはやアクチュアルな問題ではない。近隣にはならず者国家が存在し、国の安全が脅かされている。現実の危機が出来したことで、ねじれの問題はなしくずし的に霧消してしまった。だから本書はもう古典の領域に入っている。我々はねじれの問題を棚上げにして、新たな問題に取り組まなければならないのだ。このようにステージが変わったことは大変遺憾である。

それにしても、30年前には知識人というものが存在し、文学にも一定の影響力があったことに驚く。現代は知識人が絶滅して代わりにインフルエンサーが台頭した。文学も今や死に体で作家たちは食うために駄文を垂れ流している始末である。そう考えると、30年前は夢があった。批評が批評として機能し、文学も批評の材料としてそれなりの価値があったのだから。インフルエンサーが支配するこの世界で我々は何に希望を見出せばいいのだろう? 時の流れは残酷である。

 

ウェーバー、フロイト、ベンヤミン、アドルノを通じて「神なき時代」の断面を提示していく。

フロイトによる「エジプト人モーゼ」説のくだりが面白かった。事実かどうかに関わらず、この説にはユダヤ人に対する異教徒からの憎悪を氷解させる効果があるという。なぜなら選民の意味を逆転させるから。このくだりはだいぶ長かったが、全部抜き書きしておいた。機会があったら引用するかもしれない。

また、ベンヤミンの背後にあるのはユダヤ神秘主義的な時間論と半異教的な占星術の視線であり、アレゴリー解釈こそがベンヤミンの方法的キー概念なのだという。

本来、ヤーヴェ信仰あるいはユダヤ民族史であった文書資料は、イエスの出現と意味を目的とする「予兆」「予形」「預言の成就」といったさまざまの形をとりながら、アレゴリカルに「新約聖書」に吸収され、旧いモーゼの約束「旧約」として、副次的意味を与えられることになる。「代理贖罪」「三位一体」といったキリスト教神学の中枢をなす教義は、すべてイエスを前提とした目的論的なアレゴリー解釈の上に成り立っていると言ってもいいであろう。

だからアレゴリー解釈という技法そのものを、ユダヤ的と言うわけにはいかない。しかし同じヘブライズムの伝統の中でも、ユダヤ教徒とキリスト教のアレゴリーの手法の間には明らかな相違がある。すなわち、ユダヤ的アレゴリー解釈は、イエスもしくは一般に「新約聖書」を前提にせず、また抽象的絶対者(つまり姿も見えず名前もない)としての神を「隠喩」でしか語らない。一方、キリスト教はそれを「直喩」化して、肉体をそなえたものとして人格化し、さらにヘレニズムと結びついて、それを実在化(存在論化)することもある。(p.121)

ユダヤ教とキリスト教のアレゴリー解釈の違いが面白い。

 

フォードからバイデンまで9人の大統領を取り上げている。

メモとして書いておくと、ジェラルド・フォード(共和党)、ジミー・カーター(民主党)、ロナルド・レーガン(共和党)、ジョージ・H・W・ブッシュ(共和党)、ビル・クリントン(民主党)、ジョージ・W・ブッシュ(共和党)、バラク・オバマ(民主党)、ドナルド・トランプ(共和党)、ジョー・バイデン(民主党)の9人。

こうして見ると、アメリカは二大政党制が有効に機能しているようだ。自民党政権が長く続く日本とは大違いではある。アメリカは政権交代によってそれまでの膿を出し切っているので、民主主義としてはやはり成功の部類と言える。大統領の任期が4年で、最大で2期しか務められないのも、新陳代謝に拍車をかけている。

人間として好ましいのは人権外交を掲げたカーターだった。ただ、その理想主義は現実の世界情勢と噛み合わず失敗してしまった。理想と現実のすり合わせは難しい。

アメリカでは「強いリーダー」が理想とされていて、「男らしさ」から逸脱すると総スカンを食らう。女性大統領が生まれない原因はそこにあるような気がした。ヒラリー・クリントンもカマラ・ハリスも健闘したが、より「男らしい」候補に負けている。

全体的に好きな大統領はみんな民主党だった。僕もまた理想主義者なのだろう。

 

著者はゼロ年代のロスジェネ論壇を牽引していた人。本書は労働問題からジェンダー、サブカル批評まで多岐にわたる批評集である。

後の仕事の原液みたいな本で、個人的にはジョジョ論、寄生獣論が面白かった。また、労働問題がジェンダー論に流れ着くのは至極当然のことで、後に著者が男性学の本を出すのも必然だったのだろう。非モテ問題やジェンダー論などもロスジェネ論壇を構成する重要なトピックだった。

著者は川崎市で障害者介助の仕事をしていた。そのせいか、青い芝やALSについての読み物もある。

ロスジェネ論壇の火つけ役は赤木智弘だったが、著述家として現在も活躍しているのは杉田俊介や雨宮処凛である。文筆の世界も「無能力」では生き残ることができない。人は能力主義から逃れられないものだと痛感する。

赤木智弘に応答するために彼が10年以上書いてきたウェブ日記を通読しているのが面白い。約164万4000字もあったという。SNS登場以前はウェブ日記が活況を呈していた。今はみな140字の世界に安住して読み応えのあるコンテンツがウェブから消えている。寂しいことである。

 

第一章と第二章は男性学や非モテの話題だが、第三章は一転してケアワークの話題になっていてまとまりがない。非モテに対する有効な処方箋も提示されず、一冊の書籍としては不満の残る内容だった。

男性学の問題は、男性は生まれながらにしてマジョリティという原罪を背負っており、女性に対して罪悪感を抱きつつ自分の中の男性性を反省しなければならない、と自己批判を迫ってくるところだ。自分の権利を主張するのに、あるいは自分の生きづらさを吐露するに、厳しい制約が課せられている。これは男女平等の観点から見てもおかしい。いったい誰の顔色を窺っているのか。こんなんだから白饅頭や小山晃弘に一定の支持が集まるのである。

また、男性は構造的に「男らしさ」から降りることができない。これは男社会の要請もあるが、実は女性が男性に対して「男らしさ」を望んでいるからである。「男らしさ」から降りた男性は女性から決して選ばれない。一生独身のまま人生を終えることになる。つまり、女性もまた男社会の共犯なのだ。この構造に触れなかったのも大きな瑕瑾だろう。

そもそも男性と女性は「権利」というパイを奪い合っているのであり、男性が生きづらさを解消しようとすれば、女性の生きづらさが増すのである。逆もまた然りで、女性が生きづらさを解消しようとすれば、今度は男性の生きづらさが増す。この闘争的な面から目を背けているのは誠実ではない。

 

ほとんどがネットの考察厨みたいなこじつけでげんなりしたが、唯一コマ割りに言及した箇所は良かった。

『ジョジョの奇妙な冒険』は第5部に入り、斜めのコマ割りへ完全移行した。主要人物たちは猫背的表象になるか、膝が過剰に屈折した立ち姿になる。このくねった身体性が他の漫画と一線を画しているのはその通りで、我々はここに荒木飛呂彦の芸術性を見る。

一方、波紋と幽波紋の解釈は概ね妄想と呼べるもので、商業本でこんな駄文を読まされるとは思わなかった。ネットに転がっているアマチュア批評、あるいは文フリに並んでいる批評同人誌並に牽強付会である。まるで『エヴァンゲリオン』の謎解き本みたいなノリだった。

さらに『ジョジョ』に対して手放しの絶賛トーンで、対象と距離が取れていないところもマイナスだ。評論なら解剖医のような冷徹さが欲しいところである。

というわけで、ここまでくだらない本は久しぶりにお目にかかった。

 

男たちは全員加害者であり無神経である、だからひたすら自己批判して反省するべきだ、ということが言いたいのではありません。むしろ反省や自己批判だけでは足りない、と考えます。リベラルでジェンダー公正的な社会(多様な文化や性や民族の人々が平等に自由でいられる法的・制度的な環境)を求めながら、それと同時に私たちは生活改善し、自己改造していくべきです。反差別的で非暴力的な男性へと自己変身(生成変化)していくべきです。(p.24)

生きづらさを抱えた男性たちをフェミニズムにオルグしようという本で、男性学とは徹頭徹尾男性をいじめ抜く学問なのだと思った。

男性は生まれながらに特権を持っており、差別する主体として存在する。そんなお前らが権利を主張するのはおこがましい。むしろ被害者意識を捨て、無害な存在に生まれ変わるべきだ、と説いている。

『非モテの品格』よりは論理的に強化された本だが、それゆえに新興宗教のパンフレットみたいになっているのは否めず、ここに書かれたことを素直に受け止め実践する気にはなれなかった。つまり、洗脳されなかったのである。アメとムチの論理で言えば、本書はムチばかり与えてアメを与えない。だから男性の賛同者を得られない。そもそも現代人はポリコレに疲れ、リベラルを冷たい目で見ている。そこへお前たちには反省が足りない、と促されても言うことを聞く気にはなれない。

リベラルは救うべき弱者を選別する。だからアメリカでは選別されなかった弱者がドナルド・トランプを大統領に選んだ。その事実を無視して自分たちの思想を押しつけても無駄だろう。むしろリベラルのほうが反省し変わるべきである。

 

加藤幹郎『荒木飛呂彦論』よりはだいぶいいし、納得の行く記述が多かった。星5はつけなかったが、鋭い分析が目白押しなのでジョジョファンは必読である。

登場人物の欲望に着目したところが面白い。特にスタンドはその人物の精神のあり方を形象化したものであり、言い換えれば欲望の反映である。だから欲望に着目するのは正しい。

たとえば、東方仗助について。

仗助は怒ってキレると、何でも見境なく破壊してしまう。凶暴で、面倒くさく、ややこしい性格の持ち主だ。彼の髪形は明らかに時代遅れの、巨大なリーゼントなのだが、髪形を他人から馬鹿にされると、仗助はキレまくって、周囲の状況すら見えなくなり、巨大な怒りのままに相手をブチのめしてしまう。

しかしおそらく、それゆえに、仗助の能力は、他人の傷や怪我を完全に治す、という強力な治癒能力になっている。自分が傷つけたり、壊してしまったものを復元し、もとに戻せるように。(pp.75-76)

さらに、ブローノ・ブチャラティとレオーネ・アバッキオについて。

(……)第五部のブローノ・ブチャラティの能力(スティッキィ・フィンガーズ)は「ジッパー」である。これは二つのもの(仁義/悪)を結びつけると同時に引き離すという、ブチャラティの矛盾した欲望を記号的に表現している。同じく第五部のレオーネ・アバッキオの能力(ムーディー・ブルース)は、「対象の時間を巻き戻したり、再生したりできる」というものだが、これは「過去の罪を贖ってやり直したい」というアバッキオの願望が具現化した能力であり、そこには同時に「過去の罪を償うことはもうできない」という諦めが混じっている(実際にアバッキオは、他人の過去であれば幾らでもリプレイできるのに、自分の過去だけは絶対にリプレイできない)。(p.78)

この辺りの解釈はキレキレで評論を読む醍醐味を味わえた。

バトル漫画が資本主義的というもその通りで、我々日本人は資本主義の精神を『週刊少年ジャンプ』から学び実践している。この点、アメリカ人がプロテスタントの倫理から資本主義の精神を学んだのとは対照的である。

杉田俊介はあまり好きな書き手ではないが、本書はとても良かった。

 

Xに投稿されたあるポストを見てサブカルの薄っぺらさについて考えている。

サブカルがなぜ薄っぺらいかと言えば文化の上澄みにしか触れず、おたくみたいに掘り下げようとしないからだ。彼らは有名な固有名詞をつまみ食いすることしかしない。サブカルが文化をファッションとしてまとう消費者だとしたら、おたくは文化とストイックに向き合う研究者だ。だからおたくはサブカルの浅さが嫌いだし、サブカルはおたくの探究心を嫌っている。

今期放送中の『チ。―地球の運動について―』がまさにおたくのアニメで、この作品は真理への欲求が信仰や保身を超える、つまりおたくのサガを描いている。浅瀬に留まっているサブカルには理解し得ない領域であり、両者の分かり合えなさを端的に表している。

そもそも文化をファッションとしてまとうことは文化に対する冒涜ではなかろうか。

 

プライム・ビデオで大塚愛のライブ映像を見た。

両方ともコロナ禍での開催で、観客の歓声がまったくなかった。これでは歌うほうもやりづらかっただろう。

 

YouTubeで東浩紀のゲンロンPR番組を見た。とても面白かった。

www.youtube.com

やはり今は動画の時代だし、文字だけ書いて評価されようというのは虫が良すぎるのだろう。顔を出して流暢に話すことこそが求められるスキルなのだ。

 

pulp-literature.hatenablog.com