海外文学読書録

書評と感想

ルイジ・ピランデッロ『月を見つけたチャウラ ピランデッロ短篇集』(1912)

★★★★

短編集。「月を見つけたチャウラ」、「パッリーノとミミ」、「ミッツァロのカラス」、「ひと吹き」、「甕」、「手押し車」、「使徒書簡朗誦係」、「貼りついた死」、「紙の世界」、「自力で」、「すりかえられた赤ん坊」、「登場人物の悲劇」、「笑う男」、「フローラ夫人とその娘婿のポンツァ氏」、「ある一日」の15編。

チャウラは、「月」を見つけたことに、言い知れぬ慰めと優しさを感じ、知らず知らず、泣くつもりもないのに涙を流していた。あそこで、「月」が広大な光のベールをまといながら、空をのぼろうとしている。山や平地や谷を己が明るく照らしていることにも気づかずに。驚きに満ちた夜のなか、彼女のおかげで恐怖も疲労も感じなくなったチャウラがそこにいることも知らずに。(Kindleの位置No.192-196)

以下、各短編について。

「月を見つけたチャウラ」。現場監督が採掘工に残業を言い渡す。スカルダ爺さんと彼の下にいる見習いのチャウラが夜中に仕事をする。現代は夜中でも光に溢れていて、自販機だったり街灯だったりが周囲を照らしている。人里に住んでいたら真の暗闇を体験することはまずない。だから月を見てもピンとこないところはある。というのも、それは数多くある光のひとつでしかないから。そういう意味でチャウラの体験は貴重だ。悲しいことに我々はもう自然に感動することなんてなくなったのである。

「パッリーノとミミ」。雄犬のパッリーノは子供たちの懇願のおかげで何とか処分されずに済んだ。パッリーノは人間から手酷い仕打ちを受けることで気性が荒くなる。やがて家を出たパッリーノは肉屋で飼われることに。そこで上流階級のような雌犬ミミと出会う。人間社会を映した寓話。一時期はいい関係になっても相手が落ちぶれたら容赦なく見捨てる。これは男女逆でも同じ。だから結婚という契約関係は重要なのだ。結婚は配偶者を安易に見捨てないための措置。自然状態では見捨ててしまうから契約で縛っている。それと飼い主に捨てられたら生きていけないのが当時の女の悲しいところでもある。その点、現代の資本主義社会は恵まれているのだ。

「ミッツァロのカラス」。羊飼いがカラスの首に小さな青銅の鐘をつけて野に放つ。カラスは鐘の音を鳴らしながら飛び回る。ある日、農夫のチケはカバンに入れたパンを盗まれたことに気づく。下手人がカラスだと断定したチケは罠を仕掛ける。ラストは間抜けな人間の間抜けな死に方という感じだけど、人間は誰だって間抜けになる可能性があるから笑ってもいられない。余計なことをすると落とし穴にはまってしまう。そういうのが世の理として存在する。

「ひと吹き」。「私」の知人が突然死した。色々実験していくうちに、「私」が息を吹きかけた人間が死ぬことに気づく。「私」は肉体を失い、疫病そのものになるのだった。「私」に息を吹きかけられた人間も災難だけど、何の理由もなしに人間性を失う「私」だって災難だ。人を殺す能力も善し悪しで、たとえば、デスノートみたいなのだったら僕も欲しい。殺したい人間が何人かいる。しかし、本作みたいに直接息を吹きかけないといけないのは不便だし、何より人間の形状を失うのは理不尽だ。やはり人を殺す能力なんていらないと思う。

「甕」。農場主のドン・ロロが巨大な甕を購入する。ところが、その甕が真っ二つに割れてしまった。ドン・ロロは職人のディーマ親方に修理させる。これは上質な喜劇だった。ドン・ロロもディーマ親方も程良く戯画化されていて面白い。平時では主人と使用人の立場があるけれど、非常時ではその枠が取っ払われる。ラストも痛快ではないか。

「手押し車」。地位も名誉もある「わたし」の背徳的な行為。サイコサスペンスみたいな出だしだったから相当えぐいのを予想したら「おいおい」って感じだった。こういう風に外してくるところが面白い。気になるのが語り手の離人感で、自己同一性の揺らぎをこの時代に書いているところが興味深かった。己を形作るのは行為と結果しかない。そこに己を感じなくても事実として存在する。なかなか哲学的な命題ではないか。

使徒書簡朗誦係」。使徒書簡朗誦係とあだ名されたトンマシーノが信仰を失い還俗する。ある日、トンマシーノは些細な理由から中尉と決闘することになった。昔の人は名誉を守るため、くだらない争いで死んでいたようでぞっとする。それもこれも世間に横溢するマチズモのせい。信仰を失うことは許されても名誉を失うことは許されない。ところで、本作はラストが名場面だった。

「貼りついた死」。列車に乗り遅れた男と他人を観察して人生を想像する男の会話劇。想像力を駆使して他人の人生にしがみつくのって、「趣味は人間観察」みたいな不穏さがあるけれど、作家になるような人物は大抵この類ではなかろうか。本作の場合はまた倒錯していて、男は人生の不快さを知るために他人の人生にしがみついている。人生なんて取るに足りないものだ、と安心したいのだ。翻って我々が物語を求めるのも同様の理由からで、そこには現実逃避の意味合いがある。

「紙の世界」。読書家のバリッチは盲目になったため、朗読してくれる女性を雇う。ところが……。紙の世界が彼の世界のすべてで、行き過ぎた読書は人生を損なうものだと痛感する。そりゃ現実を直視するよりは本を読んでいるほうが遥かに楽だから。たとえるならネトゲ廃人のようなものだろう。どちらもバーチャルな世界に生きている。でも、こういう特異な人生を歩む者が一人くらいはいてもいいと思う。人生は一度きりなのだから好きに過ごさせたらいいのだ。

「自力で」。3年前に人生が変容したマッテオが、自分の足で墓地に向かう。「手押し車」と同様、自己同一性の揺らぎを題材にしている。自分が何者であるかを見失う感覚って、現実から居場所を失ったときに現れるのだろう。それも離人症的な症状を伴って。自分の足で墓地に向かう様はまさに生ける屍だった。

「すりかえられた赤ん坊」。ロンネの赤ん坊がすり替えられた。やったのは《ドンネ》という魔女で……。取り替え子はフィクションでよくあるモチーフだろう。僕が一番好きなのは『キン肉マン』【Amazon】である(王位争奪編)。本作の場合、愛されざる赤ん坊を愛するための知恵が提示されるも、それが2人目の出産で崩れてしまう。面白いのは知恵を貸したヴァンナおばさんが守銭奴で他人の不幸にかこつけて金をせびっているところだ。こういうやり手ババアは洋の東西どこにでもいると感心する。そして、当の取り替え子はネグレクトされるのだった。

「登場人物の悲劇」。作家の「わたし」が未来の登場人物たちの面接をする。その中にフィレーノ博士という野心的な人物がいて……。フィレーノ博士は他の作家が書いた小説の登場人物で、「わたし」によって不死を与えられたいのだという。現代日本では異世界転生ものという人生やり直しコンテンツが流行っているけれど、フィレーノ博士の望みも人生やり直しだろう。面白いのはフィレーノ博士が登場人物という入れ子の中の存在であり、一種のメタフィクションになっているところ。こういうのは異世界転生ものでもまだないと思う。

「笑う男」。アンセルモ氏は毎晩寝ている間に大声で笑っている。そう妻に指摘される。しかし、アンセルモ氏には心当たりがない。医師によると夢が原因のようだが……。人間が笑うのって大抵はくだらないことが原因だ。幸せだから笑うのではない。お笑い番組を見て笑えないのは出演者がみんな勝ち組で、勝ち組が道化を演じているからだ。情報化社会にあっては本物の道化を見ないと笑えないのである。

「フローラ夫人とその娘婿のポンツァ氏」。フローラ夫人とその娘婿のポンツァ氏が引っ越してくる。ところが、2人は別居していた。2人の間にはフローラ夫人の娘、すなわちポンツァ氏の妻を巡って話の食い違いがある。どちらもそれぞれ物語があって、相手のことを狂人と断じている。自分は相手に合わせて役割を演じているのだ、と。話を聞かされた人たちはどちらの言い分を信じたらいいのか分からない。読者も分からない。そういう奇妙な短編だった。

「ある一日」。「わたし」は眠りから引き剥がされ、通りかかった駅にいきなり放り出された。気がつくと見覚えのないプラットホームの暗がりに立っている。「わたし」は列車に乗って旅に出た覚えもなかった。アイデンティティの揺らぎがカフカ的不条理にまで接近していてスリリングだった。自分の人生が自分のものとは思えない離人感。著者はそういうモチーフが好きなようだ。ここから異世界転生までの距離は近い。