海外文学読書録

書評と感想

マルク・ロジェ『グレゴワールと老書店主』(2019)

★★★

18歳のグレゴワールが介護サービスつきの老人ホームで仕事をすることに。そこの入居者には元書店主のピキエ老人がおり、彼は部屋に三千冊もの本を積み上げていた。ところが、ピキエは老体のために自分で本を読めない。そこでグレゴワールが朗読をすることになった。

「いいか、これは単なるピリオドではない。これはサスペンスなんだ。息を吸え。空気を取り込め。これは最重要だ。君にとってもだが、なんといっても作品にとって欠かせないものだ。本というのはひと息で書かれるものではない。本を書くのは後悔を付け加えていくことでしかない。ろうそくの端から端まで。炎がしだいに移っていくようにするのだ」(p.44)

死を目前にした老人が若者を導いていくような筋立て。グレゴワールはそれまで読書なんてろくにしてこなかったが、ピキエの勧めによってその醍醐味を知り、人生を大きく前進させることになる。

読書の醍醐味とは他者性の獲得であり、そのことは本作を読むような層にとっては自明のことだろう。我々は読書を通じて他人の経験を自分の内側に取り込んでいるのだ。一方、朗読の醍醐味は聴衆の共同体を作ることで、本作の場合だと職員・入居者・家族を巻き込んでいる。ピキエは「言葉、それは時間だ」と主張する。同じ空間で同じ時間を共有することが朗読の目的なのだ。個人的に、朗読は黙読よりも遅いからだるく感じるけれど(だからYouTuberの動画を見るのもきつい)、発話による身体性こそが読書という行為に人間味を与えることも事実で、朗読も無下にはできないところがある。

ピキエが身体性を重視しているところが面白い。彼はグレゴワールに運河でのハードなトレーニングを課している。これはスポ根に近い荒唐無稽な内容で、おそらくは誇張表現なのだろう。だいたい朗読に必要なトレーニングなんてせいぜい発声練習くらいだろうから。しかも、その後ピキエはグレゴワールに、250キロ先の修道院まで歩いて彫像に読み聞かせをするよう依頼している。250キロとは途方もない距離だ。ピキエがここまで他人に身体性を要求するのは、自分がパーキンソン病で動けないからであり、己の意思を若者に受け継いでもらいたいと願っている。そして、彫像への朗読は極めて象徴的な行為だ。彫像が肉体の再生を象徴するとしたら、朗読は文学の再生を象徴している。一見すると無益に思える象徴的な行為が、その実若者を大人にするためのイニシエーションになっているところが見逃せない。

ピキエは肉体の老化によって本を読めないのに、部屋に三千冊もの蔵書を積み上げている。物質こそが、その手触りこそが生きるよすがになっているのだろう。現在は紙の本から電子書籍への移行期だから、こういう心情にも納得できるものがある。しかしこれが半世紀後、電子書籍でテキストを読むのが当たり前の時代になったらどうなるのか。電子書籍は0と1によって構成されたデータに過ぎない。データは物質のような「存在」がなく、従って思い出を宿すこともない。ピキエにとって三千冊の本は自分の人生を凝縮させたものだ。そこには物神としての本が屹立しており、その「存在」が朗読という身体性への回路になっている。どこまで行ってもアナクロなところが本作の魅力であり、同時に限界でもあると言えよう。ピキエの死後、グレゴワールがパルプ産業に転職したところに強固なメッセージ性を感じる。