海外文学読書録

書評と感想

アンドルス・キヴィラフク『蛇の言葉を話した男』(2007)

★★★★

エストニア。レーメットは森で母親と姉の3人で暮らしていた。森ではおじさんから蛇の言葉を教えてもらう。森の近くには村があり、その村は外国から来たキリスト教の影響下にあった。森では肉を食べるのに対し、村ではパンを食べている。レーメットの隣人たちは次々と村に移り住み、キリスト教に改宗して農耕生活を送るのだった。森には今や少数しか人が住んでおらず、蛇の言葉を知る者は絶滅の危機に瀕している。

「司祭ヨハネスさん、ぼくは今まで森の中で暮らしてきたから言える。森の精霊なんてものは存在しない。恐れなければならないのは森の精霊ではなく、その存在を信じる者たちだ。あんたの神にしても同じこと。修道士たちが森の精霊に別の名前をつけたにすぎない。例えば、修道士がぼくに洗礼名をつけたとしても、何かが変わるわけじゃない。どんな名前であれ、ぼくはぼくであり続けるのと同じように、森の精霊にしても同じ、どんな名で呼ぶにせよ変わりはしない。ぼくはその遊びには乗りたくない」(pp.275-276)

原書はエストニア語。本書はフランス語からの重訳である。

キリスト教文明をエストニア古代文明によって相対化し、非科学的な迷信を皮肉っている。森の人たちは精霊を信じており、賢人と呼ばれる老人に至っては狂信者と化していた。一方、村の人たちはキリスト教に洗脳されており、神や人狼が存在すると思っている。蛇の言葉を話すレーメットは蛇と仲良しだけど、村の人たちにとって蛇は敵だった。なぜなら太古の昔、エデンの園で蛇がアダムとイヴを唆したから。宗教上の理由により、蛇は叩き殺さなければならない。キリスト教文明はエストニア古代文明よりも近代化されているものの、非科学的な迷信を信じているという意味では同類だ。神も精霊も存在しないと確信しているレーメットからすれば、森の賢人も村のキリスト教徒も歪んでいるのである。とはいえ、レーメットが無謬かといえばそうでもない。彼自身は森の人たちによって伝承されたサラマンドルの存在を信じている。結局のところ、文明とは囲い込みなのだろう。人間を同質の生活圏に囲い込んで洗脳する。キリスト教が拡大したのはその手法に自覚的だったからであり、今度はその波がエストニアにも押し寄せている。

村の人たちが農耕生活を送っているのに対し、森の人たちは狩猟採集生活を送っている。そのため、信教に関係なく森の文明が衰退するのは必定だった。つまり、村を支配するキリスト教が森の古代文明よりも優れているわけではなく、単に農耕生活が狩猟採集生活よりも近代化に近かっただけである。そういう意味でいわゆる原住民は不利だった。エストニアの衰退はあくまで狩猟採集生活が農耕生活に負けただけであり、森の文明がキリスト教に負けたわけではない。それが証拠にキリスト教徒も非科学的な迷信を根拠に殺戮を繰り広げている。とどのつまり、両者は生活レベルは違っても精神レベルは同じなのだ。近代化と浮かれているキリスト教徒も野蛮さでは古代文明に引けを取らない。本作はそういった五十歩百歩の状況をファンタスティックな筆致で浮き彫りにしている。

蛇の言葉を話すレーメットは2つの文明をかき回すトリックスターであり、終盤ではとんでもないカタストロフを引き起こしている。本作はそんなレーメットが語り手を務めているのだけど、不思議なのは野生児なのに洗練された語彙でものを語っているところだった。レーメットは現代の平均的な日本人よりも達者に言葉を操っている。これはどういうことなのだろう、と首を捻った。