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1931年。25歳のやくざ者パピヨンが無実の罪で終身刑を言い渡される。彼は仏領ギアナの流刑地に送られることになった。1933年。パピヨンは仲間と共に脱走する。一行はトリニダッドを経てコロンビアにたどり着くが……。
「あんたは何を文明と呼ぶのですか、署長」と私はたずねた。「あんたは、エレベーターや飛行機や地下鉄があるから、フランス人は、おれたちを迎え入れて看病してくれたこの人たちよりも文明がすすんでいることの証拠になると思っているのですか。おれみたいな者の意見だけれども、自然のなかで、たしかに機械文明の恩恵は一切欠いているけれども、こうして素朴に生きているこの村の一人ひとりのなかにこそ、人間らしい文明も、心だてのりっぱさも、他人の心が分る力も、一そう多くあるのだ、ということを知って下さい。進歩の恩恵にはあずからないにしても、この村の人たちは、世界の文明人でいるつもりのすべての人よりも、キリスト教の愛について一そう高い感覚をもっている。おれはパリのソルボンヌの文学士よりもこの貧しい村の無学な人の方が好きだ。文学士も、将来、おれを罪におとした次席検事のような心をもつのではね。この村の人はいつでも一個の人間だが、あんな男は人間であることを忘れてしまったんだ。」(下 pp.400-401)
自伝的小説。脱走のディテールを細かく描写していてだいぶ辟易したものの、20世紀前半の時代性を感じられたのは良かった。南米が舞台なので異国情緒もある。
自由の国フランスでも植民地支配の時代は極めて野蛮で、囚人の扱いが犬畜生並だった。暴力は日常茶飯事、懲罰の際は野垂れ死にしてもおかしくないような地下牢に閉じ込めている。身体は拘束されるし、ろくに飯は出さないし、看守に話しかけることも囚人同士で会話することもできない。国家は何の権限があって人間から人権を奪えるのか。そういう疑問が頭をもたげてくる。しかし、そもそも人権とは国家が国民に与えているものだった。近代社会において、我々は生まれた瞬間からどこかの国家に所属し、国家によって生殺与奪の権を握られている。例外はない。天賦人権説と言えば聞こえはいいが、自然権は自然によって与えられているのではなく、国家によって与えられているのだ。そして、国家によって与えられた権利は国家によっていつでも奪うことができる。監獄とはその図式が剥き出しになった場所であり、我々は国家に対して無力なのだと思い知らされる。
パピヨンが英雄として輝いているのは、そんな国家に反抗しているからだ。国家が作ったルールを無視して何度も脱走を試みている。そもそもパピヨンは無実の罪で服役しているのだからその権利は大いにあるだろう。彼は不当に奪われた権利を回復しようとしているだけなのだ。だからこそパピヨンは自由のシンボルと見なされるし、彼の不屈の闘志には敬意を払う価値がある。どんな酷い環境にあっても諦めない。そのバイタリティの強さは英雄の条件を満たしている。
パピヨンは人から好かれるタチで、囚人仲間や所長などから一目置かれている。また、女にもモテモテだった。1933年の脱走ではインディオの女2人を妻にしている。本作が自伝的小説であることを踏まえると、どこまでがファクトでどこからがフィクションなのか気になるところだ。自分のことを実像よりも良く印象づけているのではないか、と勘繰ってしまう。本作の難点は著者の武勇伝のように見えるところで、思えば、佐藤優『自壊する帝国』【Amazon】もそういう臭みがあった。ナルシシズムをどうコントロールするかが自伝的小説の難しさだろう。それは古今東西変わらない。
1941年の脱走では戦時下であることが幸いしたうえ、ヴェネズエラでは政変によって運良く助かっている。英雄に必要なのは不屈の闘志と時の運であることが分かった。