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パンデモンの修道院で育てられたジュリエットは、13歳のとき、三十路の尼僧デルベーヌ夫人と出会う。ジュリエットはデルベーヌ夫人からキリスト教道徳に反した悪徳を教育されるのだった。修道院を抜け出したジュリエットは、金満家のノアルスイユに囲われることに。以降、非道の限りを尽くした遊蕩生活を送ることになる。
モンドールは他の女たちを退らせた後、あたしだけを私室に引っ張り込んで、
「美しい天使よ」とこう申しました、「いよいよ最後のお勤めをやってもらう時が来た。それこそ、おれがもっとも聖なるおれの快楽を期待しているものじゃ。さあ、おまえの同僚のまねをして、彼女たちがしたようにおまえも糞をせい、そうしておれの口の中に、お前の尻から出た聖なる汚物と、おれがこぼしたものとを二つながらそそぎこんでくれい」(Kindleの位置No.969-973)
登場人物が自らの加害欲求を正当化するところは面白かったものの、実際に加害をする場面は平板でつまらなかった。陰茎を切断するとか、妊婦を流産させるとか、拘束した人間を拷問した挙げ句に射殺するとか、冗長なわりに加害のバリエーションが少なくて拍子抜けする。とはいえ、本作の歴史的価値が高いのは理解できる。キリスト教道徳に中指をおっ立て、同性愛や肛門性交、スカトロプレイなどをしているのだ。宗教によってあらゆる欲求が縛られた中、自身の幸福を追求する権利を叫ぶ。幸福の方向性(悪事の成就)には賛同できないとはいえ、自由を求める姿勢は普遍的で納得できる。
本作がなぜここまで悪徳に拘るのかといったら、現実の社会が美徳によって支配されているからだ。悪徳とは体から湧き上がってくる自然の衝動であり、それを実行することで多大な快楽が得られる。美徳が社会の利益を優先させるのに対し、悪徳は個人の利益を優先させる。既存の社会規範から自由になることで一段上のステージに上る。つまり、悪徳の愛好家は究極の個人主義者であると同時に、究極の自由主義者でもあるのだ。人間が際限なく自由に振る舞うとどうなるのか。自然状態において人間が他者を尊重するわけもなく、弱肉強食の世界になることは明白だろう。力を持つ者が弱い者を公然と虐げる。それを裏付けるかのように、本作において悪徳の愛好家たちはみな社会的地位が高い。社会的地位が高くないと弱者を踏みにじれないわけで、悪徳とは貴族の嗜みであることが窺える。
加害欲求を満たすことは人間性の肯定と言えるかもしれない。たとえば、古代ローマではコロッセウムで奴隷を剣闘士として戦わせていた。命懸けの戦いである。当時の民衆は人の生き死にを娯楽にしていたのだ。また、チンギス・ハーンは「人間の最も大きな喜びは、敵を打ち負かし、これを眼前よりはらい、その持てるものを奪い、その身よりの者の顔を涙にぬらし、その馬に乗り、その妻や娘をおのれの腕に抱くことである」と述べている。支配することの快楽を明確に打ち出した。一方、文明化された現代人も加害欲求と無縁ではない。特に近年はフェミニストによるキャンセルカルチャーが典型例だろう。失言した人を寄ってたかって吊るし上げ、その職業を奪い去る。正義の名の元に自身の加害欲求を満たしているのだから救いようがない。我々は美徳の仮面を被りながら、その実ささやかな悪徳に身を委ねている。
そう考えると、本作において包み隠さず悪徳を称揚したのは誠実だ。攻撃の矛先はキリスト教にあったとはいえ、一切のおためごかしを言わない。当時支配的だったキリスト教道徳を否定するその姿勢は、現代における反PCの流れと一致する。個人的には時宜を得た読書だった。