海外文学読書録

書評と感想

フランツ・カフカ『審判』(1925)

★★★

30歳の誕生日に銀行の業務主任ヨーゼフ・Kが見知らぬ2人組の訪問を受け、自分が逮捕されたことを告げられる。しかし、罪状は分からない。ヨーゼフ・Kは今まで通り日常を過ごしていいことになった。彼は古いアパートで審理を受けたり、弁護士の事務所で女中といい関係になったりする。そして、31歳の誕生日を迎えようとするとき、フロックコートを着てシルクハットを被った2人組の訪問を受ける。

しかしKの喉首には一人の男の手の重みがかかり、メスを、もう一人が、Kの心臓に刺し込み、二度えぐった。眼がかすんで来たが、頰を寄せ合った二人の男がKの顔のすぐそばで、最後を見極める有様が、まだわかった。「犬のようにくたばる!」Kは云った。屈辱が、生き残っていくような気がした。

執筆は1914年から1915年。

とても寓意的な内容でどう解釈すべきかよく分からない。また、先日読んだ『アメリカ』に比べると各エピソードの密度が低く、もう少し手を入れたらどうなったのか気になるところである。とはいえ、『アメリカ』と違ってちゃんと結末を示しているところは評価できる。ヨーゼフ・Kは最後、「犬のようにくたばる」のだった。

近代以降の裁判は、人ではなく行為が審理の対象になっている。痴漢をしたとか、盗みを働いたとか、人を殺したとか。それに対して本作は、行為ではなく存在に対して裁判が起こされている。審理の対象が存在だから罪状が分からない。法治国家では通常、犯罪者は罪を犯した時点で社会の外に弾き出され、裁判を経て刑罰を受けることで社会の枠組みに戻されることになる。ところが、存在が罪だとするとそのプロセスが通らない。何らかの濡れ衣を着せられ処刑されるのみである。ヨーゼフ・Kはある日突然、世界を牛耳るシステムから疎外された。作中には見張り役や笞刑人といった下級役人が出てくるものの、彼らは自分の職分以上のことは何も知らない。誰もヨーゼフ・Kの罪状を知らない。ただ上から命令されたことを淡々とこなしているだけである。おそらくシステムとは上から下までこのようなもので、全貌を把握している者など皆無なのだろう。社会を牛耳るシステムは得体の知れない力で動いているのであり、責任の主体が見えないからこそ不気味なのである。

ヨーゼフ・Kにとってこの訴訟は災害のようなもので、何の罪もないのに降りかかってきた運命だ。とんだ災難である。しかし、災害と違うところは当面は何も害がないところで、だからヨーゼフ・Kは訴訟に対して甘い認識を示している。「訴訟の結果などは問題にしていないし、有罪判決だって鼻の先で嗤ってやるつもり」でいたのだ。実際、最後に処刑されるまで何の危機もない。通常の日常生活を送っている。そんな彼が予告もなしに処刑されるのは青天の霹靂だろう。本人の思惑とは裏腹に、システムの内部では何らかの合意が形成されていたのだ。メメント・モリとはまさにこのことである。我々にとって「死」とは忘れた頃にやってくる。そう考えると本作は、人生の寓意と言えなくもない。我々は得体の知れないシステムに見守られながら何となく生きている。

本作でもっとも印象に残っている人物が弁護士フルトである。彼はヨーゼフ・Kに対しては丁重な態度なのに、同じ顧客である商人ブロックに対しては横柄な態度で接していた。むしろ、横柄どころかまるで奴隷を扱うかのような態度である。ヨーゼフ・Kはそのことを注意するものの、なぜか被害者のブロックがヨーゼフ・Kに噛みついている。ブロックは奴隷でいることに甘んじていた。この場面、フルトがブロックを洗脳していることが透けて見えて妙に可笑しかった。