海外文学読書録

書評と感想

マルキ・ド・サド『美徳の不幸』(1787)

★★★

12歳のジュスティーヌは3歳上の姉ジュリエットと修道院で暮らしていたが、両親の破産によって修道院から出ることになる。姉妹は離ればなれに。美徳を奉じるジュスティーヌは行く先々で不幸に見舞われる。高利貸しに盗みを働くよう勧められてそれを断ったら縊り殺されそうになるし、山賊の仲間になるのを断ったら森の中で手籠にされそうになるし、侯爵による母親毒殺計画を邪魔したら百回も鞭打たれることになる。その後もジュスティーヌの不幸は続くのだった。

「ああ神さま」とあたしは声をあげました、「すべてはあなたのお望みのままです、無辜の者が悪人の餌食となるのも、御意のままでございます。主よ、あたしをご利用ください、あなたがわれわれ人類のために耐え忍んだあの苦痛にくらべては、まだまだあたしの不幸など物の数ではございません。熱愛するあなたのためにあたしの耐えている不幸が、他日、弱者がその憂悶のなかでつねにあなたを目的とし、その苦痛のなかであなたを称えるときに約束される、あの褒賞に値する人に、あたしを高めてくれますように!」(Kindleの位置No.1190-1195)

1787年バスティーユ牢獄で書かれた本作は2度の加筆修正が行われ、1791年に『ジュスチーヌまたは美徳の不幸』【Amazon】、1797年に『新ジュスティーヌ』 【Amazon】として発表されている。解説の澁澤龍彦によると、本作はジュスティーヌ物語のエスキースという位置づけのようだ。

冗長だった『悪徳の栄え』に比べると短くてスピード感がある。長さは中編程度だ(Kindle版だと位置番号だけでページ数が分からない)。この手の遍歴譚はあまり長くしても似たようなエピソードの羅列になるので、個人的にはこれくらいがちょうどいいと感じる。『悪徳の栄え』を補完するテクストとして参考になった。

本作は美徳を奉じるジュスティーヌが、その信条ゆえに次々と不幸に見舞われていく。この筋書きはいくら何でも作者の願望を反映し過ぎだろうとは思うけど、一方でジュスティーヌは生き延びるのに必要な強かさがない。綺麗事だけでは弱肉強食の世界は渡っていけないわけで、美徳に殉じるジュスティーヌが世間知らずの甘ちゃんに見える。ジュリエットほどの悪徳は行き過ぎにしても、他人を出し抜く世間知くらいは兼ね備えておくべきではないか。特にジュスティーヌのような孤児は、グレーゾーンに踏み込む覚悟がないと強者に踏みにじられることになる。もう少しずるい立ち回りをしてもバチは当たらないだろう。

ジュスティーヌが美徳を奉じるのは生来のやさしさのせいもあるが、何より天の罰が怖いからである。彼女はキリスト教の世界観に縛られているのだ。美徳に従って生きれば幸福になれるし、死んだ後は天国にも行ける。そのような家畜を飼い慣らすための作り話を愚直に信じている。一方、悪徳を奉じる人たちは無神論者で、キリスト教の世界観から自由でいられた。神は存在しない。だからすべてが許される。当時としては進歩的な考え方だろう。現代人なら神の不在は当たり前の事実だけど、18世紀の人にとってはそうではなかった。サドが真実を掴んでいたことは特筆に値する。

冤罪で裁かれることになったジュスティーヌは、「貧困と美徳は相いれないものと信じられているのですから、わが国の法廷では、薄幸は被告人にとって完全なひとつの証拠なのです」と語る。魔女裁判に通じる理屈で、キリスト教道徳の破綻を鋭く指摘している。またある悪党は、「貧乏だというだけの理由でさげすまされ、弱者であるというだけの理由ではずかしめられ、地球上どこへ行っても結局苦痛と困難にしか出あわないようにされてるのよ」と述べている。そうならないためには悪徳に身を委ねるしかない。徹底したリアリズムではないか。さげすまされたくなかったら金持ちになる必要がある。はずかしめられたくなかったら強者になる必要がある。目的のためには手段を選ばない。現代の新自由主義と親和的な価値観が本作を覆っていて興味深い。