海外文学読書録

書評と感想

マルキ・ド・サド『閨房哲学』(1795)

★★★

15歳の少女ウージェニイが、性的逸脱者のサン・タンジュ夫人とドルマンセから教育を受ける。2人は近親相姦や不倫など、無神論に基づいた悪徳の論説を展開し、最終的にはウージェニイの母親をみんなでいたぶる。

神を信じるためには、馬鹿になることが必要だよ。ある者にとっては恐怖から、またある者にとっては弱さから生まれるこの忌まわしい幻は、いいかねウージェニイ、地上の組織のためには無用の長物というか、むしろ百害あって一利なきものというべきだろう。なぜかというに、本来正しかるべき神の意志が、自然の法則特有のもろもろの不正と調和することは、先ずもってあり得ないだろうからさ。神はつねに善を欲するはずなのに、自然はその法則に役立つ悪への償いとして善を欲するだけなのだ。また神はつねに活動していなければならないはずなのに、自然にとってはこの永遠の活動がひとつの法則なのだから、この点でも自然は永遠に神と競争し対抗していなければならないだろう。(Kindleの位置No.375-381)

サドの哲学が充満した対話篇。登場人物の口を借りて自分の思想を開陳している。

やはりキリスト教の否定が目を引く。ドルマンセは人間のことを「地球の存在によって必然的に生じた単なる一つの産物にすぎない」と喝破し、神のことを「理性の作用を助けるために捏造された幻影」と断じている。18世紀の人なのに宗教を虚構と見抜いていたのは鋭い。また、神が全能ならばその力で悪を阻止しているはず、と素朴な疑義を呈し、さらにはイエスのことをいかさま師・ペテン師・ごろつき呼ばわりしている。古代ローマが滅んだのはキリスト教を公認したせいだ、みたいな言いがかりも散見されるものの、総じてキリスト教を相対的に見ていて知性の高さを窺わせる。時は植民地支配の時代。自分が所属する文明を相対化できたのもグローバル化のおかげだろう。西洋諸国は世界をキリスト教で塗りつぶそうとした。本作はそれに抗してキリスト教を批判している。

「自然の衝動」を大切にしているところも特徴的で、人間とは誰も純潔であることを望まないと主張している。悪徳は自然であり、美徳は不自然なのだ。キリスト教道徳は弱者でも生き残れるように作られた道徳で、本作はこれを敵視している。サドの哲学だと弱肉強食の世界が理想のようだ。この辺は随分と屈託がないが、しかし、現代人からすると鼻白んでしまう。というのも、自分が強者になれる保障がないから。弱者に転げ落ちたら一生踏みにじられることになる。ところが、登場人物は自分が強者側の人間だと信じて疑わない様子。人間はそれぞれ専制君主であり、望むがまま悪徳を為すことを奨励している。このエゴの強さは特筆すべきだろう。本作における道徳と弱者の捉え方はニーチェを先取りしている。

夫人からスカトロ趣味を聞かされたウージェニイが、「まあ、何て異常な趣味なんでしょう!」と驚く。そうしたらドルマンセが次のように説いた。

この世の中に、異常などと呼ばれ得るものは一つもないよ、ウージェニイ。すべては自然から由来しているのだからね。自然は人類を創造したとき、その顔をひとりひとり違えて造ったように、その趣味をもひとりひとり違えて造ったのさ。だから、僕たちは千差万別な人間の容貌に驚くより以上に、人間の趣味の多種多様なることに驚く必要はない。今おばさまが話してくれたような趣味も、あなたは知るまいが、現在かなり流行しているのだよ。とくにある年齢のひとに多いが、おびただしい数の人間がこの趣味に熱中している。どうだね、ウージェニイ、あなたに対して、もし誰かがこの趣味を要求したら、あなたはそれを断わるかね?(Kindleの位置No.889-895)

人の数だけ性癖がある。現代では常識となったこの価値観も、18世紀の人に言われたらただただ感服するしかない。本作は近親相姦や同性愛も肯定しているわけで、性的にリベラルなところは好感が持てる。本作が自由の国フランスで生まれたのも果たして偶然なのか。いずれにせよ、サドの哲学は興味深い。