海外文学読書録

書評と感想

ヴィエト・タン・ウェン『革命と献身』(2020)

★★★★

ヴェトナム戦争後に二重スパイをしていた「私」は、紆余曲折の末に義兄弟のボンとパリに流れ着く。難民として入国した2人は中国系マフィアの傘下に入り、麻薬取引に手を染めるのだった。裏社会で仕事をこなしていたある日、「私」はもう一人の義兄弟マンがパリにいることを知る。マンは北ヴェトナムの元スパイ管理者で、「私」とボンを拷問していた。

人種差別の愛はやっぱり人種差別です! 私が普遍的でないということに関しては――なぜですか? 私が黄色人種だから? 半分しか白人じゃないから? 難民だから? あなた方のかつての植民地出身だから? 訛りがあるから? 私の外見が軽蔑に値するから? 食べているものが不快だから? イエス・キリストは難民の子で、馬小屋生まれの貧乏人で、植民地にされた地の者で、僻地の田舎者で、社会のリーダーたちから軽蔑され、そのリーダーを統治する者たちからも軽蔑された、卑しい大工にすぎない――そのイエス・キリストが普遍的になるのなら、私だってなれる、このクソ野郎!(p.354)

『シンパサイザー』の続編。

今回もある目的のために書かれた告白という体裁になっている。西洋と東洋の二面性に引き裂かれた「私」が、西洋の様式で物語るところがポイントだろう。「私」の告白はルソーの『告白』【Amazon】を意識したものだけど、そのルソーはヴェトナムの元宗主国フランスの哲学者である。つまり、植民地出身の人間は宗主国の言葉で語らざるを得ないというわけだ。ここにポストコロニアル的な問題意識が見て取れる。

フランス人とヴェトナム人の混血にして私生児である「私」には確固たるアイデンティティがない。それは彼が資本主義と共産主義を行き来することでより曖昧になる。「私」はボスの元で麻薬取引という極めて資本主義的な行為に従事するも、その価値観に染まりきってるわけではない。かといって今では共産主義からも足を洗ったから、革命を志す伯母との関係も乗り切れない。「私」はボス(資本主義)と伯母(共産主義)の間をのらりくらりとしている。さらに、「私」はかつてカトリック教会に通っていたが神を信じきれず、それでいて共産主義者のような無神論にも振り切れていなかった。西洋と東洋、資本主義と共産主義。2つの二面性の間で宙吊りになっている。「私」はどこにいても何者でもない。信じるものも人生の意味も何もない。この「何もない」というのが本作のキーワードになっていて、「私」の言動には常に暗いニヒリズムが漂っている。

本作の面白いところは、「私」がイエス・キリストに擬されているところだ。「私」はアラブ人のギャングたちに監禁され、拷問を受けた挙げ句に『ディア・ハンター』【Amazon】よろしくロシアンルーレットをやらされる。そこでイエスの復活のような死と再生の通過儀礼を果たすのだった。その後、今度は立場が逆転してギャングの一人を監禁することになる。「私」は復讐するチャンスに恵まれるも、自分を拷問した相手を赦すのだった。さらに、「私」には2人の幽霊――いずれも「私」が殺害した男だ――が取り憑いていて、時折「私」に話しかけてくる。この幽霊は彼の抱える原罪を意味していた。このように「私」にはイエス・キリストという極めて西洋的なイメージが付与されている。西洋と東洋に引き裂かれながらも西洋の要素が優勢なのは、西洋による植民地支配が長く続いたからであり、ここにもポストコロニアル的な問題意識が見て取れよう。植民地出身の人間はどこにいても宗主国の色に染まらざるを得ない。そういった状況をイエス・キリストに仮託して語っている。

ヴェトナム人にとっての革命がせつないのは、三百万人の死者を出して「抑圧的国家装置」を別の「抑圧的国家装置」と交換しただけなところで、勝っても負けても詰んでいるのが悲しい。ヴェトナム戦争とはいったい何だったのか、と暗い気分になる。