このブログでは原則的に海外文学しか扱ってないが、実は日本文学やノンフィクションも陰でそこそこ読んでおり、それらを読書メーターに登録している。 今回、2022年に読んだすべての本から、最高点(星5)を付けた本をピックアップすることにした。読書の参考にしてもらえれば幸いである。
評価の目安は以下の通り。
- ★★★★★---超面白い
- ★★★★---面白い
- ★★★---普通
- ★★---厳しい
- ★---超厳しい
狙撃兵や外科医、パルチザンなど、独ソ戦に関わった女性たちの証言を集めている。
わたしたちが戦争について知っていることは全て「男の言葉」で語られていた。わたしたちは「男の」戦争観、男の感覚にとらわれている。男の言葉の。女たちは黙っている。(p.9)
上記のような問題意識から本書は徹頭徹尾女性に取材している。
なぜ本書に惹かれるのかと言ったら、女性が肉体的に非力で家庭的な性とされているからだ。子供を生み育てる性が男性的な現場で人を殺める。命の危険を伴った3K仕事に従事する。読者はそのようなギャップに戸惑いながらも戦争という非日常に好奇心を刺激され、怖いもの見たさからどんどんページを捲ることになる。
独ソ戦が特殊なのはファシスト政権同士の戦いだからだろう。進んでも地獄ならば戻っても地獄。たとえ生き残ったとしても濡れ衣を着せられ粛清される可能性がある。一見するとソ連は男女平等で先進的だが、根底には恐怖政治が渦巻いていてぞっとする。
以下、印象に残った証言。
ドイツ軍は従軍していたソ連の女たちを捕虜に獲らなかったんです……ただちに銃殺。それでなければ、ドイツ軍の兵隊が整列している前を歩かせます。「見ろ、これは女じゃない、出来損ないだ」と。だから私たちはいつも二つの弾を残していました。一発目が不発だといけないから二つ。
仲間の看護婦が捕虜になってしまったんです……翌日、私たちがその村を解放した時、至るところ馬の死骸やオートバイが倒れていて、装甲車が乗り捨てられていました。仲間は見つかりましたが、目はくりぬかれ、胸が切り取られていました……杭に突き刺してありました……零下の厳しい寒さで、顔は真っ青、髪は真っ白。十九歳だったのに。(pp.177-178)
パルチザンの証言も強烈だ。
仲間のザジャルスカヤという女性にはワレーリヤという娘がいたんです。七歳だった。食堂を爆破しなければならなくなって、爆弾をペチカのなかに仕掛けるために持ち込まなければならない。ザジャルスカヤは自分の娘に運ばせる、と言ったのです。手かごに爆弾を入れて、子供の服やおもちゃをいくつか、そして卵を二十個とバターの包みを載せました。そうしてこの子が食堂まで爆弾を運び込んだんです。母性本能は何より強いと言われていますが、そうじゃありません。思想のほうが、信じていることの方が、勝る。私はそう思います……確信してます。ああいうおかあさん、ああいう娘がいなかったら、その人たちが地雷を運ぶ役をやらなかったら、私たちは勝利できなかっただろうって。命、これは大事です。すばらしいこと。でももっと大事なことがあるんです……(p.334)
戦争はとにかく人間から人間らしさを剥ぎ取り、関わった者たちを不幸のどん底に突き落とす。読んでいて気が滅入った。
なお、同じ著者による『ボタン穴から見た戦争』【Amazon】は独ソ戦を子供の目から見た姉妹編である。本書に比べるとやや落ちる内容だが、それでも違った視点から戦争を捉えるのに役立つ。また、独ソ戦については大木毅『独ソ戦』【Amazon】が副読本として参考になった。
本書の狙いは以下の通りである。
本書で議論の対象とする政治学は、「主流派」の政治学である。その中でも特に有名な学説を紹介しながら、そのつど、ジェンダーの視点に基づく批判を提示する。その狙いは、このような批判が、政治学のあらゆるテーマに及んでいることを示すことにある。それを通じて、ジェンダーの視点を持つ政治学は、標準的な政治学の扱わない特殊な争点を扱っているのではなく、むしろこれまでの政治学が扱ってきたのと同じテーマを違う角度から論じているのだということが明らかになるであろう。(Kindleの位置No.99-104)
政治学にジェンダーの視点を持ち込んだ本。フェミニズムの基礎が押さえられていて勉強になった。構築主義から公私二元論批判まで、現在主流の理論をインストールすることができる。
個人的に興味深かったのが、男性稼ぎ主モデルの福祉国家と個人モデルの福祉国家という概念である。
男性稼ぎ主モデルの福祉国家において、社会保険は家族の代表者としての男性に対して提供される。すなわち、男性が家族全員の社会保険料を支払えば、その家族に対して受給資格が与えられる。労働政策は男性の雇用を確保するために行われ、妻には無償で家事・育児・介護を担うことが要求される。
これに対して、個人モデルの福祉国家においては特定の家族像は前提とされず、夫と妻は対等な存在として、仕事で収入を得るとともに、家事や育児においても協力することが想定されている。このため、夫と妻はどちらも自らの資格で社会保険制度に加入し、自らの拠出に基づいて給付を受ける。労働政策も、男性と女性のどちらかを優先するわけではない。
さらに、個人モデルの福祉国家はケアを社会化する。すなわち、育児や介護といったケア労働を家族で抱え込むのではなく、政府が積極的に社会福祉サービスを供給することで、男女共働きの家族を支えるのである。(Kindleの位置No.1309-1317)
当然、本書では個人モデルの福祉国家を理想としている。
小泉政権と安倍政権は女性の活躍を謳っていた。一見すると、男性稼ぎ主モデルの福祉国家から個人モデルの福祉国家への転換を図っているように見える。ところが、実態は経済成長と少子化対策しか頭になく、根底には保守的な価値観が隠れていた。本書はその欺瞞を暴き出している。
ところで、フェミニズムの世界では本質主義よりも構築主義のほうが正しいとされている。しかし、女性しか出産できない以上、本質主義の呪縛から逃れられないのではないか。すべてのジェンダー規範は「出産」から出発している。ジェンダー規範の内面化だけでは社会が男性支配であることの理由にはならない。また、進化心理学の知見を踏まえれば、男女に本質的な差があることも明らかである。もっと生物としての人間に目を向けるべきだろう。
2007年の本。古い本ではあるが、資本主義社会における若者の諦観が分かって興味深かかった。
子供が学ばないのも若者が働かないのも根は一緒で、幼い頃から消費者として社会関係に入っているからだという。
消費することから社会的活動をスタートさせた子どもはその人生のごく初期に「金の全能性」の経験を持ってしまう。そのスタートラインにおける刷り込みの重みは想像される以上に大きいと僕は思います。それは単なる拝金主義的傾向が刻印されてしまうということとは違います。そうではなくて、消費全体として立ち現れる限り、買う主体の属人的性質については誰からも問われないということです。
問題は金の多寡ではないのです。「買い手」という立場を先取することなのです。(pp.42-43)
消費者意識を刷り込まれた若者は、子供の頃から等価交換の原則を振り回す。そして、学齢期を終えてニートになるのは、労働に等価交換の原則が働かないからだという。
労働から逃走する若者たちの基本にあるのは消費主体としてのアイデンティティの揺るぎなさです。彼らは消費行動の原理を労働に当てはめて、自分の労働に対して、賃金が少ない、十分な社会的威信が得られないことに「これはおかしいだろう」と言っているのです。そして、等価交換を原則とした場合、彼らの言っていることはまったく正しいのです。
彼らに言わせれば、経済合理性というのは要するに「努力と成果(賃金や威信)の相関」です。そして、労働の場では、どう考えても努力と成果が相関していない。彼らにはそう思われる。そして、それは正しいのです。ほんとうにそうなんですから。だから、「そのような不合理なことは私にはできない」と彼らは堂々と主張する。まことに合理的です。これは「学びからの逃走」の場合と同一の論理です。(p.143)
思えば、ゼロ年代に「働いたら負けかなと思ってる」が一大ミームになった。当時のニートたちは努力と成果が相関しないことを洞察していたわけだ。そもそも労働はオーバーアチーブで、賃金は労働者が作り出した労働価値に対して常に少ない。だから働けば働くほど労働者は損をすることになる。そこに資本主義の闇がある。労働者として収奪されるくらいなら、消費者として収奪する側に回りたい。これは人間として当然の欲求だ。つまり、ニートとは資本主義社会に対する抵抗者なのである。
付言すれば、ゼロ年代は新自由主義の全盛期で自己責任論が幅を効かせいた。このような抑圧が若者を労働から遠ざけていた面もあるだろう。生まれも育ちも悪い人間はいくら努力しても報われない。そして、その結果を自己責任として個人が引き受けなければならない。この仕組みを作った竹中平蔵はけしからんと思う。