海外文学読書録

書評と感想

2020年に読んだ311冊から星5の9冊を紹介

このブログでは原則的に海外文学しか扱ってないが、実は日本文学やノンフィクションも陰でそこそこ読んでおり、それらを読書メーターに登録している。 今回、2020年に読んだすべての本から、最高点(星5)を付けた本をピックアップすることにした。読書の参考にしてもらえれば幸いである。

評価の目安は以下の通り。

  • ★★★★★---超面白い
  • ★★★★---面白い
  • ★★★---普通
  • ★★---厳しい
  • ★---超厳しい

 

著者は日本と中国に造形が深いようで、日本では『ジャパン・アズ・ナンバーワン』【Amazon】が、中国では『現代中国の父 鄧小平』【Amazon】がベストセラーになっている。

本書については、著者が次のように書いている。

本書は時系列に沿って、文字記録に残る一五〇〇年間の日中関係史を紹介している。この中で私は、重要な歴史事象を説明するだけではなく、両国それぞれのより大きな社会構造と、両国間の関係構造についても考察するように心がけた。(p.6)

紙幅の大半は近現代史に割かれているが、それでも古代から現代までほぼ違和感なく読めるのはすごいことだ。思想的にも偏りがないので、日本史・世界史の復習にちょうどいい。日本では近現代史を学校で勉強する機会が少ないため、本を買うなり借りるなりして自習しなければならない。本書はその一助になるだろう。

一読して痛感したのは、外国に学ぶことの重要性だ。日本人は古代国家を形成するにあたっては中国から、近代国家を形成するにあたっては西洋から学んだ。一方、中国人も長らく中華思想に胡座をかいていたものの、近代化を実現するにあたっては日本と西洋から学んでいる。日本の歴史教科書には近現代史の頁が少ないが、これは外国から学ぶ姿勢を阻害しているのではないか。グローバル社会で生きるには、歴史の勉強が不可欠だと言える。

本書はわりとニュートラルな立ち位置だが、所々に著者なりの分析があって参考になる。

たとえば、以下は日中戦争について。

日本人は中国人が、外来の敵の侵略に対してどれだけ粘り強くナショナリズムを発揮できるかを見くびっていた。そして自国で高まりつづけるナショナリズムが、将来どれだけ自分にとって重たい足枷になるかについても、まったく正確に予測できていなかった。日本の悲劇は、明確な戦略や使命がなくても、そして戦略を策定して実行に移す権力の中枢が欠けていても、軍事力を行使できる能力があったことだ。中国の悲劇は、戦略の全体像に関して優れた分析ができていながら、統一された政府、産業基地、武器を持たず、日本軍の前進を食い止められる規律正しい軍人たちがいなかったことだ。その結果として起きた戦争は、中国と日本の両方を荒廃させただけでなく、平和な未来を築きたいと願うのちの世代にも数々の困難を残した。(pp.328-329)

日本と中国の問題点を鋭く指摘していると思う。

 

全4巻。

現代日本大日本帝国の死の上に築かれた国家であり、両者の間はとっくの昔に切れてるようで、実はまだ無数の糸で繋がっている。本書はそういった問題意識のもと、日本の近代史を「天皇と東大」という覗き窓から論じている。これがなかなかユニークで面白かった。日本史において古代は天皇家に関する記述が中心だったが、近代も同じような切り取り方ができるのである。しかも、東大というおまけ付きで。

テーマの性質上、東大人物伝的な面が強くて退屈だが、蓑田胸喜平泉澄といった問題人物を知ることができたのは収穫だった。どちらもWikipediaではそっけない記述なので、詳しく知りたい人は本書を読むことを推奨する。人物評価については、著者のスタンスが明快なところがいい。

本書でもっとも印象に残っているのが、戦争に向かっていく時代の日本人についての記述(引用は単行本から)。

あの時代の資料を読みなれるにつれて、私にだんだんわかってきたことは、あの時代は、後世の我々が考えている以上に右翼的、国粋主義的であったということである。少数の右翼国粋主義者がそうだったというのではない。世の中一般の人々のものの考え方、感じ方が、今の我々には想像を絶するほど、右翼的であったということだ。天皇崇拝者だったということだ。あの時代の一般国民はみな欺されており、心にもないことをいわされていたのだという説が戦後広く流布され、それが標準的な歴史の見方とされていた時代もあったが、どうもそうではなくて、あの時代、一般国民のほとんどが、いまでは極端な右翼的見解としか思えないことを、みんな本当に信じきっていたらしいのである。そういうことがわかってきたとき、私はあの戦争がなぜ起きたのかが実感的に本当にわかったと思った。(下p.638)

この指摘は新鮮だった。我々は同じ過ちを繰り返してはならないと思う。

 

第三の新人」の短編小説を読解している。

取り上げているのは以下の6編。

作品ごとに自我(エゴ)と自己(セルフ)の関係を図解しているが、これが有効に機能しているかどうかは分からない。ただ、個々の読解はエッジが効いていて読み応えがあった。

小説を読み、それについて何らかの知見を述べることは、新たな創作と言えるのではないか。作家の数だけ作品があるように、読者の数だけ再創造された作品がある。本書で村上がやっていることもその再創造と言えよう。個人的には、短編小説を読むとき作品の諸要素を図式化して分析するようなことはしないので、本書の読解はとても参考になった。

吉行淳之介「水の畔り」について、小説世界を「技巧性の世界」と「非技巧性の世界」に分けて解読しているところが本格的だった。また、小島信夫「馬」について、基本的に訳のわからない変な話としながらも、それをコミットメントとデタッチメントの観点から捉え直し、「癒しと赦しの物語」と結論づけているのはスリリングだった。

安岡章太郎「ガラスの靴」の章から二箇所引用しておこう(引用は単行本から)。

まずはこちら。

安岡章太郎の主人公たちは多くの場合、自分からは進んでどこにも行けないまま、徐々に迫り来る時間切れを待っています。それはよその世界からひとつの強制としてやってくる制度に過ぎないし、主人公たちはその制度を忌み嫌っています。しかしそうはいうものの心の底で彼らは、そのタイムアップの到来を密かに求めているようです。そうなれば、結果の好き嫌いはともあれ、もう何も考えなくていいからです。何も判断しないでいいからです。(pp.107-108)

そして、もうひとつ。

あと安岡章太郎の小説でしばしば指摘されるのは、「太った女と、痩せた女」の問題です。彼の小説にしばしば太った女と痩せた女というパターンが登場します。多くの場合、主人公は痩せた女を追いかけ、痩せた女は逃げます。一方太った女は主人公のあとを追いかけ、主人公は逃げます。この二つのタイプの女性たちは、物語の中で見事な対照を描き出しています。太った女は肉体を持った(あるいは過度に持ちすぎた)現実であり、痩せた女は肉体を欠いた非現実の象徴と言ってもいいでしょう。彼はいつも痩せた女という形をとった非現実を追い求めるのですが、最後には太った女という現実にぬるぬるとからめ取られてしまいます。太った女は多くの場合、母親の像に帰結します。(p.109)

村上はこのようにちゃんと分析しながら読んでいる。文学に対して誠実な読者だと言えよう。

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