海外文学読書録

書評と感想

ジュンパ・ラヒリ『停電の夜に』(1999)

★★★★

短編集。「停電の夜に」、「ピルザダさんが食事に来たころ」、「病気の通訳」、「本物の門番」、「セクシー」、「セン夫人の家」、「神の恵みの家」、「ビビ・ハルダーの治療」、「三度目で最後の大陸」の9編。

「ねえ、エリオット」バスの座席で夫人が言った。「あなた、おかあさんが年とったら、老人ホームへ入れる?」

「かもね。――毎日面会に行くけどね」

「いまはそう言うのよ。でもね。おとなになったら、まるで思いもよらないところに住んでたりするものなの」夫人は指を折って数えた。「奥さんがいて、子供が生まれていて、みんな連れてってほしいところがあるの。そのうちにね、どんな優しい人だって、やっぱりホームへは行きたくないなんて言い出すわ。あなただって面倒になる。一日行きそびれ、また一日行きそびれ、おかあさんもドロップが買いたくて、よっこらしょとバスに乗るようになるんだわ」(pp.173-174)

ピュリッツァー賞受賞作。また、「病気の通訳」でオー・ヘンリー賞を受賞している。

以下、各短編について。

「停電の夜に」。インド系の夫婦のもとに、5日間だけ夜の1時間停電になるとの通知が届いた。2人はロウソクに火を灯して夜な夜な秘密を打ち明け合う。そして、最終日に意外な秘密が……。暗闇のなか小さな灯りを囲んで物語をするというのは、人類が洞窟に住んでいた頃からの習慣なのだろう。そういう状況下で秘密を打ち明けたらきっと親密になるに違いない。夫婦は流産が原因ですれ違いがあったから、これで関係も修復されるのかと思っていたら……。この展開はかなり驚いたし、夫の反撃も衝撃的だった。夫婦とはいえ仮面を被ってるわけで、人間って怖えなあと思う。

「ピルザダさんが食事に来たころ」。1971年。アジアではダッカのある東パキスタンが独立を求めて西の支配体制と戦っていた。そんななか、アメリカに住む10歳の少女リリアの家に、ダッカ出身のピルザダさんが足繁く通ってくる。本作の面白いところは、東パキスタン独立運動アメリカの独立革命が対応しているところだ。どちらも歴史的な出来事ではあるけれど、しかし、一般のアメリカ人にとって東パキスタンの情勢などどうでもよく、そのことが図書室での先生の言動に表れている。リリアと先生の間には精神的な分断があるのだ。みんなそれぞれの興味関心でしか世界を見ていない。こういうのって移民ならではの視点だと思う。

「病気の通訳」。インドで観光ガイドをしている中年男カパーシーが、アメリカから来たインド系のダス夫妻を案内する。カパーシーはガイドの他に医者を相手に通訳の仕事をしていた。夫人がカパーシーにある秘密を告白する。カパーシーのほうはこれからも交流があると期待していたけれど、夫人にとっては「旅の恥はかき捨て」だった。同じインド系でも方やインド人、方やアメリカ人(移民二世)なわけで、そこには大きなギャップがある。また、カパーシーにとって医者の通訳であることはうだつの上がらない人生を物語っているのに対し、夫人のほうは通訳だからこそ告白する価値を見出した。相手が透明な媒介者であるから告白したのだ。まったくもって人の評価は分からないものである。

「本物の門番」。カルカッタ。アパートで階段掃除をしているブーリー・マーは、自分は元地主だと語っていた。しかし、話をするたびに細部が食い違うため、住人たちはそれを法螺話だと思っている。あるとき、アパートの住環境が整備され……。マーのアイデンティティを証明するものが合い鍵だとすれば、それを無くすことで地位を無くすことは必然なのだろう。それにしても、近代とはこういう胡乱な人物を認めないということでもあるんだな。車寅次郎の居場所がなくなった現代日本みたいな感じ。

「セクシー」。ミランダはデヴというインド人男性と不倫していた。一方、ミランダには友人のラクシュミがいて、ラクシュミのいとこの夫も不倫している。ミランダはデヴに「きみはセクシーだ」と言われる。実はミランダは別の人物からも「セクシーだ」と言われるのだけど、男ってとりあえずセクシーと言っておけばいいと思ってる節がある。たとえば、環境大臣小泉進次郎なんか、気候変動について論じる国際会議でセクシー発言をして物議を醸した。セクシー、セクシー、セクシー。世の中みんなセクシーだ。

「セン夫人の家」。11歳のエリオットが、母親のいない時間だけセン夫人の元に預けられる。セン夫人は大学教員の妻で、インドからの移民だった。彼女は免許を取るべく車の運転を練習している。祖国から遠く離れて暮らす移民の肖像をチャーミングに描いていて良かった。インドからは時に喜ばしい知らせがあり、時に悲しい知らせがある。そういうのが日常の所作に反映している。そして、アメリカの生活には若干戸惑ってるようで、特に車の運転には難儀している。ユーモアとペーソスが控えめに入り混じった短編だった。

「神の恵みの家」。サンジーヴとトウィンクルはインド系の新婚夫婦。2人は新居に引っ越してきたばかりだった。トウィンクルが家から陶製のキリスト像やキリストが描かれたポスターなどを見つけてくる。しかし、サンジーヴは自分がヒンドゥー教徒であることを理由にいい顔をしない。この夫婦の温度差は何なのだろうと思いながら読んでいた。妻のトウィンクルは喜んでいるのに、夫のサンジーヴはそれとは正反対。夫は家から出てくるキリスト教グッズを処分したいと思っている。これはヒンドゥー教に対して忠実であるかどうかの違いかと思ったけれど、それ以上のもっと人間的な度量の違い、愛を知っているかどうかの違いのような気もする。いずれにせよ、キリスト教グッズで溢れる祝祭的な雰囲気のなか、これからの夫婦関係に一抹の陰りがよぎるのだった。

「ビビ・ハルダーの治療」。29年の大半を原因不明の病気で過ごしたビビ・ハルダー。彼女には結婚願望があったが、病気のせいでそれも叶わなかった。小売店をしている家族は、ビビのことを厄介者扱いしている。童話みたいなファンタスティックな話だけど、インドならあり得るかなとも思う。

「三度目で最後の大陸」。1960年代。中年男性の「わたし」はインドからイギリスに渡って勉学し、アメリカで就職することになった。「わたし」には婚約者がいて、彼女のビザが降りるまで一時的に一人暮らしをすることに。ある老婆の家に下宿する。最初はこの老婆が偏屈な感じでなかなかとっつきにくかったけれど、「わたし」が婚約者を連れていったくだりでは違った顔を見せていて、しかもそれが著しく好感の持てるもので、僕はギャップに弱いんだなと痛感した。あと、祖国から遠く離れて暮らす人々の心理や行動のプロセスが知れたのもいい。これがグローバル社会で生きるということなのだろう。