海外文学読書録

書評と感想

齋藤武市『愛と死をみつめて』(1964/日)

★★★

大阪。軟骨肉腫で入院中の小島道子(吉永小百合)は左目に白い眼帯をしている。彼女は2年前に知り合った高野誠(浜田光夫)と交際し、文通していた。誠は東京で大学生活を送っていたが、時折大阪までやってきて道子と面会している。道子は持ち前の明るさで病棟の人たちから好かれていたが、彼女の病気は悪化していく。

原作は河野實、大島みち子『愛と死をみつめて』【Amazon】。

難病ものの原点らしい。このジャンルは避けて通ってきたのであまり詳しくないが、本作は原点でありながら既にジャンルの限界を露呈した映画になっている。

というのも、クライマックスがかったるいのだ。最初は比較的元気だった道子が終盤では寝たきりになる。憔悴してそろそろ命の灯火が消えそうといった風情だ。傍らには誠がいて最後のやりとりをする。このシーンがとにかくくどい。泣かせにかかっているのが見え見えで2人ともお涙頂戴の演技をする。ここは動きがまったくないうえ、尺も長くてとにかく退屈だ。だいたい物語が泣かせモードに入ると、見ているほうとしては逆に興醒めするのである。これがこのジャンルの限界だろう。作り手としては観客の涙を搾り取りたい。ところが、観客はその意図を察知して「泣かせにきたな」と警戒する。だからクライマックスのやりとりに没入できないのだ。作り手が泣かせようとすればするほどシーンはわざとらしくなる。クリシェが鼻につくようになる。そういった作為をいかにして隠すかがこのジャンルの肝だが、難病ものという性質上、先の展開は分かりきっているので上手くいかない。その結果、誰もが忌み嫌う感動ポルノになってしまう。どんな道筋をたどっても最後はお涙頂戴のやりとりをして死ぬわけで、難病ものという枠組みには最初から限界があるように感じた。

道子は左目付近に軟骨肉腫ができており、入院当初は白い眼帯をしている。放っておくと腫瘍が広がってしまう。治すには手術して顔半分を潰さなければならない。手術をした道子は顔の左半分をガーゼで覆うことになった。当時は今ほどルッキズムの強い社会ではなかっとはいえ、それでも若い女にとって顔が醜くなるのは耐え難かっただろう。美貌を失うことは命を失うことに匹敵する辛さがある。お化けみたいな顔になっても生きるべきか? 道子はそう逡巡するが、誠はどんな姿になっても道子を愛すことを誓い、彼女を励ますのである。これぞ純愛といった光景だが、しかしこれがもし男女逆だったらどうなっていただろう? すなわち、男が軟骨肉腫で顔の半分を失う。傍らの女はそのまま男を愛し続けられるだろうか? 一般的に男はロマンチストで責任感が強く、女は現実主義で責任感が弱い。それを加味すると、男は病気になった時点で女から捨てられたはずだ。男女逆だと本作のような感動ポルノは成立しない。つまり、本作のヒロインはその少女性ゆえに悲劇のヒロインであることを許されている。男女逆では物語が成立しない時点で、本作には度し難い男性差別が隠されている。

レトロ映画の愛好家としては、当時の風俗が散りばめられているのが見逃せない。プロ野球では長嶋茂雄が活躍している。駅のホームではビールが1杯100円で売られている。病院の大部屋では入院患者の一人が創価学会に入信している。ビールは値上がりしたが、長嶋茂雄は今も存命だし、創価学会もまだまだ消える気配はない。現代に繋がる固有名詞が出てきたところに感動した。