海外文学読書録

書評と感想

マルキ・ド・サド『恋のかけひき』

★★★★

日本オリジナル編集の短編集。「ファクスランジュ あるいは 野心の扉」、「ロドリグ あるいは 呪縛の塔」、「オーギュスティヌ・ドヴィルブランシュ あるいは 恋のかけひき」、「寝取られ男 あるいは 思いがけぬ和解」、「司祭になった夫」、「ロンジュヴィルの奥方 あるいは 仕返しをした女」、「二人分の席」、「プロヴァンス異聞」、「哲学者の先生」、「復讐」、「エミリー・ド・トゥールヴィル あるいは 兄の惨酷」、「司祭と臨終の男との対話」の12編。

「クロドミール、おるか」と彼はある日のこと主膳を呼んだ、「お前はこれから料理場の若衆どもと一緒に、奥方の寝台を汚した不届者を成敗するのじゃ」

「かしこまりました殿様」とクロドミールは答えた。「何でしたらそやつの首を斬り落して、乳吞豚のように料理してお膳に添えましょうか」

「その儀には及ばぬ」とロンジュヴィル侯は言った。「奴を袋に押込んで、石を詰めて、そのまんま城の堀の底深く沈めてしまえばよい」

「では左様に取りはからいましょう」(Kindleの位置No.1853-1858)

サドの本を読むのはこれで4冊目だが、この作家の小説は短ければ短いほど面白いということが分かった。メジャーな長編よりもマイナーな短編のほうが面白い。これは短い中にサドのエッセンスが凝縮されているからだろう。長編はあれもこれも書こうとして冗長になっている。

以下、各短編について。

「ファクスランジュ あるいは 野心の扉」。ファクスランジュ嬢にはゴエという恋人がいたが、2人とも財産がないので結婚する見込みは薄かった。そこへ金持ちのフランロ男爵が登場、ファクスランジュ嬢は彼と結婚するが……。フランロ男爵が最後まで悪人だったところに感心した。今際の際に一矢報いようとしている。その後、失恋した若者が世を儚んで戦場に赴き散っていくのはよくあることだったのか(小説ではよく見かける光景である)。あと、原註で夢のことを「隠れた心の動き」と洞察していて驚いた。フロイト以前にしては夢の取り入れ方が堂に入っている。

「ロドリグ あるいは 呪縛の塔」。スペイン王ロドリグは自身の行った非道により伯爵の反乱を招くことになった。手勢のないロドリグは金銀財宝を得るため呪縛の塔へ。そこで地獄巡りをする。こういう寓話って古典文学に限ってならわりと好きだったりする。なぜなら昔の人の想像力が窺えるから。これが現代文学だとどうにも洒落臭い。それはともかく、本作は宇宙に出る描写が面白かった。当時の人からしたら惑星なんてただの発光球体なのに、それでもなお宇宙に向かって翼を羽ばたかせている。解説によると、本作はフローベールに影響を与えているらしい。

「オーギュスティヌ・ドヴィルブランシュ あるいは 恋のかけひき」。オーギュスティヌ嬢は同性愛者。謝肉祭のあいだ男装をして女を漁るのが趣味だった。そんなオーギュスティヌに惚れた青年フランヴィルが、女装して彼女に近づく。キリスト教が支配的だった時代は同性愛が禁忌だったけれど、それを多様性のひとつとして認めているところがすごかった。作中でオーギュスティヌが、「風変わりな趣味の持主を嘲笑することは、母親の胎内から片目か跛で生れて来た男や女を冷やかすのと同じくらい、ぜんぜん野蛮なことですよ」と言っている。正論である。また、女性の欲望を肯定しているところも特徴的で、フェミニズムを先取りしている気配すらある。

寝取られ男 あるいは 思いがけぬ和解」。齢50絡みのランヴィル氏は尻軽な妻を放っておいて愛人を作っていた。ある日、ランヴィル氏はデゥトゥル氏という男と馬車で乗り合わせる。デゥトゥル氏はランヴィル氏の妻と寝たことがあり……。フランス文学伝統のコキュ(寝取られ男)である。本作はなかなか目新しい趣向で、自分で自分の妻を寝取る構図が面白かった。情欲というのは身近な人間には感じず、ちょっと離れた人間にこそ感じる。だからみんな浮気をする。

「司祭になった夫」。カルメル派の修道院。ガブリエル神父が浮気相手としてロダン夫人に目をつける。彼女に近づくため夫ロダン氏の機嫌を取る神父。やがて神父はロダン氏にミサの替え玉を頼むことになり……。聖と俗の対照関係が見事だった。寝取られ男がミサを唱えている間、神父はそいつの妻とよろしくやっている。聖と俗の立場が逆転しているところが皮肉である。

「ロンジュヴィルの奥方 あるいは 仕返しをした女」。封建時代。ロンジュヴィル侯と奥方は互いに浮気をしていた。ところが、ロンジュヴィル侯は奥方の浮気を許さず、彼女の浮気相手を秘密裏に殺害しようとする。ロンジュヴィル侯も奥方も浮気相手は領内の庶民だから、あまり相手に執着していないのだろう。あくまで性欲を満たすだけの関係。だから殺されても平然としているし、追放もやすやすと受け入れている。最後は貴族主義らしいハッピーエンドだった。

「二人分の席」。町家の女房ドルメール夫人は2人の男と浮気していた。1人の男と逢引きした後、すぐにもう1人の男と逢引きしている。ある日、2人の浮気男が鉢合わせしてしまい……。穴兄弟ってかなり気まずいと思うのだけど、体だけの関係だとそうでもないのだろうか(恋愛感情が絡むと気まずい)。ただ、2人目の男は1人目の男が突っ込んだ直後に自分のを突っ込んでいるわけで、その事実を知ったら気持ち悪いだろうとは思う。

プロヴァンス異聞」。ルイ十四世の時代。フランスにペルシャ使節がやってきた。エックス高等法院の役人たちがそれを迎えるが……。ユーモア小説。お歴々が演じる素っ頓狂なパントマイムが可笑しい。舞台にしたら映えるのではなかろうか。いつの時代もお役人は杓子定規である。

「哲学者の先生」。家庭教師のデュ・パルケ法師が15歳のネルスイユ伯爵にキリスト教の同体論を教える。年頃の少女を連れてきて彼女と交わらせるのだった。「プロヴァンス異聞」もそうだったけど、サドのユーモア小説はキリスト教への風刺がベースにあって、それがピリッとした辛味になっている。本作は同体論から三位一体論になるところで笑ってしまった。これぞおフランス流のエスプリ。

「復讐」。ピカルディ地方のサン・カンタン。ブルジョワのデスクラポンヴィル氏が尼僧と不倫をする。それを知ったデスクラポンヴィル夫人が復讐することに。復讐の手段が見事なミラーリングで、屁理屈を屁理屈で返すところはまるでネット論客のようだった。人間は思ったほど進歩してない。

「エミリー・ド・トゥールヴィル あるいは 兄の惨酷」。国王代理官リュクスイユ伯爵が馬車で帰任していると、夥しい血に塗れた少女が倒れていた。少女の名はエミリー・ド・トゥールヴィル。エミリーが事の顛末を物語る。家族の名誉を過剰なまでに気にするところは男性的というかマチズモっぽい。家父長制に付随する要素ではなかろうか。そして、登場人物の多くがクズなところが妙にリアルというか、当時のモラルはこの程度だったのではと推察してしまう。むしろ、リュクスイユ伯爵の善良さが嘘っぽい。

「司祭と臨終の男との対話」。司祭が臨終の男と対話する。臨終の男は無神論者だった。2人は神学論争をする。奇跡や預言を捏造して人の心身を縛るキリスト教は、現代の新興宗教と大差ないと思った。それと、臨終の男は神を信じない理由として、理解できないものを信じることはできない、と言っている。僕はこれを逆だと見ている。理解できないからこそ神秘を感じて信じているのではないか。実際、現代人は神を理解してしまったから信じていない。人の無知につけ込むキリスト教は邪悪である。