海外文学読書録

書評と感想

エドゥアルド・ハルフォン『ポーランドのボクサー』(2008,2010,2014)

★★★★

日本オリジナル編集の短編集。「彼方の」、「トウェインしながら」、「エピストロフィー」、「テルアビブは竈のような暑さだった」、「白い煙」、「ポーランドのボクサー」、「絵葉書」、「幽霊」、「ピルエット」、「ポヴォア講演」、「さまざまな日没」、「修道院」の12編。

グアテマラの村の名前は、結局のところグアテマラ人と同じなのだと思う。すなわち、かすかに漂う先住民の息遣いと、がさつなスペイン人征服者のもたらした同じくがさつな言葉と、滑稽かつ残虐なやり方で押しつけられた、しかし、苛烈なことには変わりはない帝国主義の混交。(p.29)

以下、各短編について。

「彼方の」。作家の「私」はグアテマラシティの大学で小説の講義をしている。学生の大半はやる気がなかったが、一人だけ見込みのある学生がいた。その学生は詩を書いている。ある日、学生は前触れもなく大学を退学し……。大学とは不思議なもので、教室では講師と学生という上下関係があるけれど、いざ外に出るとその関係は曖昧になる。学生の故郷に赴いた「私」は、件の学生を才能ある若者として惜しんだ。終盤、教室での関係から一歩踏み込むことで2人の人生が交差し、ささやかなエモーションが生まれている。ところで、「私」は普通の作家と天才作家を分かつ差を次のように述べている。「あることを語りつつ実は別のことを語る才能、つまり言語を用いて至高かつ繊細なメタ言語へと至る能力」。これを持つのが天才作家だ、と。そして小説を読む際、目に見えない象徴の網の目を読み解くことが読者の務めなのだ。身の引き締まるような思いである。

「トウェインしながら」。作家の「私」がアメリカで開催のマーク・トウェインの学会に参加する。「私」はそこで『ハックルベリー・フィンの冒険』と『ドン・キホーテ』の関係を論じるが……。トム・ソーヤーとハックルベリー・フィンの関係をドン・キホーテサンチョ・パンサの関係に見立てるのはわりと有名だと思う。古典文学の難しいところは先行する研究が山積しているところだろう。それを知らずに持論を発表すると思わぬ恥をかいてしまう。現代人はもう斬新な解釈なんてできないのだから、自分の関心領域に引きつけて語るしかないのだ。これはこれで悲しい。

「エピストロフィー」。「私」は恋人と一緒にアンティグア・グアテマラで開かれた文化フェスティバルに行く。そこでセルビア人ピアニストと知り合い、彼の演奏にセロニアス・モンクの面影を見出す。本作は音楽について語っているようで実は文学について語っている。また、セルビア人ピアニストについて語っているようで実は自分について語っている。つまり、一種の芸術家小説だろう。セルビア人ピアニストを評した「境界を揺さぶったり消したりする」というのは、著者の作家としてのマニフェストだと推察できる。

「テルアビブは竈のような暑さだった」。「私」と弟が妹の結婚式のためにテルアビブに行く。妹は正統派ユダヤ教徒と結婚するのだった。「私」は空港で旧知の女タマラを発見し……。「私」がユダヤ系アラブ人で、しかも四分の三がアラブ人であることに驚いた。これだと実質アラブ人じゃないかと思うのだけど、一家はユダヤ人として暮らしている。後半、「私」が結婚式のボイコットを宣言するのは、宗教国家の窮屈さが身に沁みたからだろう。そして、ラストで「私」を連れ出すタマラは自由の象徴である。

「白い煙」。「私」がスコティッシュバーで知り合った女タマラと会話する。タマラは兵役明けのイスラエル人だった。ユダヤ系アラブ人といってもナチスユダヤ人の血が入っていたら問答無用で強制収容所にぶち込んでいたわけで、一族にとってポーランドは重い意味合いがある。「私」に流れるユダヤ人の血は逃れられないスティグマだ。人間のアイデンティティが、生まれという自分ではどうしようないものに左右されてしまう。現し世はかくも残酷だ。

ポーランドのボクサー」。「私」が祖父から昔の話を聞く。戦時中、ユダヤ系アラブ人の祖父はアウシュヴィッツに送られていた。そこでポーランドのボクサーと出会い、命が懸かったアドバイスを受ける。どうやって裁判を切り抜けたのか気になる。当時は有無を言わさず処刑していたのではなかったのか。言葉のマジックというか言語の神秘性というか、とにかく人間は言葉を話せるから強い。なぜなら人を説得するのは言葉によってだから。弁が立てば暴力からも逃れられる。

「絵葉書」。「私」が流浪の音楽家ミラン・ラキッチから絵葉書を貰う。現代のジプシーはEU圏内か、東欧・ロシア圏内をのんびり彷徨っているイメージがある。ビザの関係上、ミランみたいに世界各地を放浪するのは難しいのでないか。こういうノマド生活はある程度地位のある個人じゃないと難しそうである。ところで、ジプシーは物語ることと音楽を奏でることが得意らしい。後者については『屋根の上のバイオリン弾き』くらいしか思い浮かばなかった。とりあえず、本作はフランツ・リストとジプシーの少年のエピソードが面白い。

「幽霊」。「私」の元に絵葉書が届かなくなって一年。「私」はミラン・ラキッチを探すべくベオグラード行きを決意する。ビザの取得にちょっとした偶然が起きて……。西洋人からすると日本人は自閉症に見え、日本人からすると西洋人はADHDに見える。こういう冗談をよく聞くけれど、確かに西洋人の多動性・衝動性は異常だと思う。ただし、「私」の場合は行為の動機を複合的な要因として分析しているので、ADHDではないのかもしれない。

「ピルエット」。ベオグラードに到着した「私」はミラン・ラキッチを探しつつ、ジプシーの音楽に魅入られる。よく考えたらユダヤ人の「私」にとってジプシーは赤の他人ではなく、自分を構成するルーツのひとつとして親近感があるのではないか。そして、本作は失踪人探しを口実にしたルーツ探しの小説ではないか。それはともかく、本作はジプシーの一挙手一投足が面白い。屈託もなく盗みをするところに「生」の本質が見て取れる。

「ポヴォア講演」。「文学は現実を引き裂く」とはどういうことなのか考える。本書全体を通して思ったことは、語るべき何かがある作家は強いということだ。本書はオートフィクションみたいな体裁だから尚更そう感じる。語るべきものが何もない人間は技術で虚ろな家を建てるしかなく、売文業も楽ではないというわけ。ところで、現代作家は映画への言及がとにかく多い。読者もついて行くために映画を観るのは必須だろう。

「さまざまな日没」。「私」の祖父が死んだ。外国からラビがやって来る。確かに葬式は喪の儀式の一環だけど、現代人からすると宗教色の強さが気になる。だいたいのユダヤ人はユダヤ教式で葬られ、だいたいの日本人は仏教式で葬られる。その軛を脱することはできないのか。冠婚葬祭ほど胡散臭いものはない。

修道院」。妹の結婚式のためにエルサレムに来た「私」は、旧知のイスラエル人タマラと死海に向かう。自分のアイデンティティとどう向き合うのか。ユダヤ人にせよ、日本人にせよ、民族や血筋は自分では選べない。選べないからこそ悩ましいのである。ところで、本作にはイスラエルパレスチナを隔てる壁が出てくる。それを見た「私」は述懐する。「壁とは他者に対する憎悪の物理的な意思表示ではないか」と。思えば、ドナルド・トランプがメキシコとの国境に壁を作ると宣言したとき、僕は言い知れぬ嫌悪感を抱いた。あれは憎悪の意思表示だったからそう感じたのだ。