海外文学読書録

書評と感想

アイザック・バシェヴィス・シンガー『不浄の血 アイザック・バシェヴィス・シンガー傑作選』

★★★

日本オリジナル編集の短編集。「バビロンの男」、「スピノザ学者」、「ギンプルのてんねん」、「ちびの靴屋」、「鏡(ある悪魔の独白)」、「ありがたい助言」、「呼び戻された男」、「黒い結婚」、「ちびにでかいの」、「断食」、「ティショフツェの物語」、「不浄の血」、「屠殺人」、「炉辺の物語」、「ハンカ」、「おいらくの恋」の16編。

この世なんて幻の世界にすぎないけれど、それは真実の世界と紙一重だ。おいらが寝泊まりさせてもらっている救貧院の玄関先には、遺体をのせる担架が置いてあって、墓掘り男は首を長くして待っている。いつでもおいでってわけだ。ミミズは腹をすかせているし、経帷子はちゃんと肩かけ鞄に容易してある。おいらがいなくなったら藁布団を譲り受けようって意気ごんでいる物乞いもいる。お呼びがかかたら、どっちにしても、意気揚々と行かせてもらおうと思う。向こうの世界がどんなでも、すべてはまっとうで、ややこしいことも、からかわれることも、だまされることもないだろう。そこはやっぱり神様だし、いくらギャンブルといえども、バカあつかいされることはあるまい。(pp.60-61)

以下、各短編について。

「バビロンの男」。バビロンの男がファルク・ヘイフェツ氏の屋敷に厄落としに行く。バビロンの男には昔から不思議な力があって人々を癒してきた。現代において預言者みたいな能力を持った人間は、地域社会の便利屋みたいな扱いを受けてしまう。そんな彼にとっては安らかな死こそが解放なのだ。信仰の世界を突き詰めるとマジックリアリズムに接近する(『キリスト最後のこころみ』が典型例だろう)。その図式が面白い。

スピノザ学者」。フィシュルゾン博士はスピノザを敬愛し、年老いた現在も『エチカ』【Amazon】を研究していた。彼は独り身を貫いていたが、ある日一人の女性が現れる。フィシュルゾン博士はスピノザと同じく、情動(アフェクト)よりも理性(フェルヌンフト)に重きを置いて生きていた。ところが、晩年になってそれが崩れてしまう。理性に対する情動の勝利。男を転向させるには女を仕向ければいいということだろうか。

「ギンプルのてんねん」。ギンプルは愚者として周囲からバカにされていた。そんな彼も遂に結婚。ところが、妻は私生児を産むのだった。ギンプルの語り口が魅力的で引き込まれる。その騙されやすい性格は知的ボーダーっぽいものの、語りそのものは正常だ。そして、地域社会に溶け込んだ愚者は、蔑まされていると同時に愛されてもいる。ギンプルはなかなか酷い目に遭っているけれど、それでもなお神から祝福されているような楽観がある。

「ちびの靴屋」。フランポルでは靴屋の一族が地元の名士として尊敬されていた。ところが、アバの代になって子供たちがアメリカに移住するようになり、伝統が途切れることになる。やがてフランポルをナチが爆撃して……。ユダヤ人の強みはディアスポラにあって、それは靴屋も変わらないみたいだ。子供たちは移民先のアメリカでビジネスに成功している。アバのすごいところは、後継者と目した子供たちがアメリカに渡るのをあっさり許可したところだろう。ユダヤ人の価値観が垣間見える。

「鏡(ある悪魔の独白)」。鏡に潜んだ悪魔が美人妻を拐かす。悪魔のトリックスターぶりがたまらなかった。まるで口から生まれたかのように饒舌で、言葉巧みに人妻の好奇心を刺激する。彼のセリフはどれも抜き書きしたいほど芸術的だった。それにしても、清浄なものがあるから不浄なものがあるという世界観は、そのまま善悪二元論に対応していて興味深い。悪魔というのは神に対する必要悪として存在する。

「ありがたい助言」。「私」の義父は反対派(ミトナグデイム)で、おまけに手のつけられない癇癪持ちだった。「私」は義父を敬虔派(ハシデイム)の導師の元に連れて行く。ウィリアム・ジェームズを彷彿とさせるプラグマティズムの寓話だった。まずは行動を変えること。そうすることで欲望や感情のあり方が変化する。こういった人間の心理は『旧約聖書』【Amazon】の時代から知られていたみたい。

「呼び戻された男」。材木商のアルテルが死の床につく。ところが、妻のシフラ・レアが遺体を懸命にゆするとアルテルが生き返った。以降、アルテルは「呼び戻された男」とあだ名される。アルテルは人が変わってしまい……。生まれ変わりとはつまり、変化するということなのだろう。同一性を維持できない。そして、今回は悪い方向に変化してしまった。「呼び戻された男」がソンビっぽいところが面白い。

「黒い結婚」。導師である父を亡くしたヒンデレがシメオンの元に嫁ぐ。ところが、シメオンは悪魔だった。現実か幻想か判然としないところがいい。これが現実だったらまだマシなほうで、幻想だったらヒンデレの結婚生活が地獄のようだったという話になる。現実だったらまだ諦めがつく。幻想だったらやるせない。後者のほうが恐ろしいではないか。それと、ヒンデレが感じる出産の恐怖にも注目したい。

「ちびにでかいの」。小男のモチエは妻のモチエーハから何かとバカにされていた。ある日、モチエは他所から大男のメンドルを連れてくる。モチエはメンドルに自分の商売を手伝わせるのだった。この手の寓話って登場人物の行動原理が読めないところが特徴で、話を転がすための無理筋な設定が有無を言わせぬ壁として立ち塞がる。個人的には、そういう理屈で割り切れない不条理が好きかもしれない。

「断食」。イチェ・ノフムの妻ロイゼ・ゲネンドルが家を出た。イチェ・ノフムは父親から離縁状を送りつけておけと命じられる。それを機にイチェ・ノフムは断食するのだった。呪いというのはどの文化圏にも存在するようで、だからこそフィクションの世界は豊かなのだろう。問題はそれをガチで信じている奴が大勢いること。とはいえ、我々も国家や法律といったフィクションを信じているのであまりバカにできたものでもない。

「ティショフツェの物語」。ティショフツェに悪魔がやってくる。悪魔はユダヤ・ドイツ語の物語から糧を得ていたが、最近はヘブライ語ヘブライ・ドイツ語(イディッシュ語)で書く作家が表れて芳しくない。ユダヤ人のコミュニティにいる悪魔がユダヤ教徒なのが面白い。彼らも結局は物語の中の存在で、それを記す言葉がなくなったら存在も消えてしまう。悪魔は言葉によって人を騙すが、実は彼ら自身も言葉によってその存在を担保されていたのだった。つまり、悪魔の本質は言葉である。

「不浄の血」。リシェがファリク氏という農場主の後妻になる。ファリク氏に代わって農場を切り盛りするようになったリシェは、屠殺人のルベンと懇ろになるのだった。やがてリシェは自ら屠殺を手掛けるようになる。屠殺人への眼差しが日本と似ているのが興味深い。世間は屠殺人を嫌悪しながらも、肉が食いたいから屠殺人を必要としている。リシェが村人に不浄の肉を食わせるのはささやかな罰ではないか。また、「血への情熱と肉欲が同じ根っこをもっている」という書き出しもポイントで、最近観ている『ゲーム・オブ・スローンズ』がまさにそんな感じだった。

「屠殺人」。ヨイネ・メイルはラビになるはずだったが、政治的な理由で見送られた。代わりに屠殺人として雇われることに。ところが、彼に屠殺は向いてなかった。職業選択の自由は大切だと痛感した。専門職はだいたい適正があって誰でもできるわけではないから。特に屠殺人は心理的なハードルが高く、向いてない人にとってはストレスが半端ない。しかも、無理をして頑張っても交換可能なのが寂しいところだ。

「炉辺の物語」。男たちが炉辺に集まって世にも奇妙な物語を披露する。特に信心深くなくても、奇跡や超常現象には心躍らせる何かがある。というのも、登場人物が言う通り、「この時代、神様は顔をお隠しになってしまわれた。今じゃあ、奇跡が起こっても、人間はそれを自然法則で説明する」という時代だから。「昔は、奇跡なんて、ごろごろ転がっていた」らしい。それはそれで楽しい時代だったろう。

「ハンカ」。作家のイツハクが講演のためニューヨークからブエノスアイレスに行く。現地では親類のハンカが出迎えてくれた。ハンカはナチス時代にアーリア人地区に匿ってもらい、命拾いしていた。このイツハクは明らかに著者をモデルにした人物で、キャリアを通して超自然を追求してきたのは本書を読んでも伝わってくる。信仰には奇跡が付き物だから。そして、超自然への偏愛はどこかノスタルジックだ。現実ではもう失われている。

「おいらくの恋」。82歳のヘリーは資産家だった。そんな彼が30歳年下のエテルと出会い、2人は相思相愛になる。エテルはヘリーに対して亡き夫の面影を見ていて、あの瞬間ふと我に返ったのだろう。何せ夫を亡くしてからメランコリーに苦しめられたくらいだし。一方、ヘリーはエテルのおかげで枯れ木に花が咲いた。ラストの飛躍した行動計画には苦笑してしまう。