★★★★
清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀(ジョン・ローン)の生涯。溥儀は先帝の死によって3歳のときに紫禁城に呼び寄せられる。西太后の肝煎りで即位した溥儀だったが、紫禁城で暮らしているうちにいつの間にか皇帝ではなくなっていた。やがてレジナルド・ジョンストン(ピーター・オトゥール)が溥儀の家庭教師になる。そして、17歳の婉容(ジョアン・チェン)が皇后に。一方、戦後の中華人民共和国では囚人・溥儀への尋問が行われており……。
上映時間が219分(3時間39分)もあってしんどかったが、これくらいの尺がないと叙事詩として厚みが出せないから仕方がないのだろう。実際、ラストにたどり着いたときは感動的だった。随分遠くまで来たなあ、と。溥儀は時代を作った人物ではなく、時代に翻弄された人物である。しかし、それゆえに自由を得て天寿を全うしたところに感動がある。激動の時代をよくぞ生き延びたものだ、と。この感慨に浸れるだけでも見る価値はあるだろう。叙事詩として最高の部類ではなかろうか。
溥儀は皇帝といっても中国全体の皇帝ではなく、紫禁城限定の皇帝である。壁の外は共和制の中国になっていた。本作では最初と最後にコオロギが出てくるが、このときの溥儀は入れ物に入ったコオロギである。紫禁城の中では何でもできるが、紫禁城の外には出られない。「紫禁城は観客のいない劇場だ」との言葉通り、ここでの生活はすべて茶番である。溥儀は城の囚人として飼い殺しにされていた。家庭教師のジョンストンから外の世界の話を聞かされた溥儀は、オックスフォード留学の夢を持つようになる。
自由を渇望していた溥儀は、ある日、政変によって紫禁城を追い出される。念願の自由を手に入れたのだ。溥儀は側近を連れて天津で暮らすようになる。このときの彼はすっかり西洋化されてタキシードを着ていた。この西洋化は紫禁城に住んでいた頃から始まっていて、溥儀は眼鏡や自転車など、外から西洋近代のシンボルを手に入れている。つまり、東洋の専制君主が近代人に生まれ変わっていく過程が描かれているのだ。結局のところ、アジア人は自力で近代化することができなかった。日本も近代化するに当たっては西洋の力を借りている。後進国アジアが西洋文明によって近代化していく。これが本作の裏テーマだろう。中国が国家として近代化したのはずっと後になるが(それも経済限定の近代化である)、だからこそ終盤で描かれた文化大革命は不気味なのである。戦後になってもまだ個人崇拝をやっているのかという驚き。王朝時代が終わっても権威主義による統治は続いていた。とどのつまり、この国は支配者が変わっているだけで本質は変わっていない。これなら清王朝が続いても大差なかった。
あれだけ外の世界に憧れていた溥儀が、満州国皇帝として囚人に戻ってしまうのだから救いようがない。「私の国を建てる」と随分野心的である。彼は日本と対等な関係を求めていたが、すぐに傀儡であることを思い知らされるのだった。そりゃ共産党の人から「被害者ぶるな」と言われるのも無理はない。このときの溥儀は自由から一転して不自由に逆戻りしている。皇帝という地位はそれだけ魅力的なのだろう。一度全能感を味わったらそう簡単に忘れられるものではない。満州国皇帝になったのは大きな過ちだったが、人間は誰だって選択のミスをする。こういったところは我々凡人と同じで身につまされる。
同じ戦犯でも昭和天皇は裁かれなかったのに、溥儀は裁かれた。時代に翻弄されるとはこういうことで、自分ではどうにもならない。人生とは理不尽なものである。