海外文学読書録

書評と感想

ラシルド、森茉莉ほか『古典BL小説集』(2015)

古典BL小説集 (平凡社ライブラリー)

古典BL小説集 (平凡社ライブラリー)

 

★★★

アンソロジー。ラシルド「自然を逸する者たち」、ラシルド「アンティノウスの死」、アンネマリー・シュヴァルツェンバッハ「ベルンハルトをめぐる友人たち」、ジャネット・シェイン「水晶のきらめき」、メアリー・ルノー「馭者」、森茉莉恋人たちの森」、マリオン・ジマー・ブラッドリー、ジョン・ジェイ・ウェルズ「もうひとつのイヴ物語」の7編。

「幻想だけが価値のあること。そうじゃない?」

「おっしゃる通りで。ポール様」(p.12)

翻訳作品のうち、「アンティノウスの死」と「もうひとつのイヴ物語」以外は抄訳になっている。

以下、各短編について。

ラシルド「自然を逸する者たち」(1897)

32歳のルトレールと19歳のポール=エリックは歳の離れた兄弟で、随分前に両親を亡くしていた。兄というよりは父の役割をしているルトレール。彼は弟のポール=エリックを愛しているものの、2人の間に女が関係してくる。

ある種のフランス文学に見られる退廃的な雰囲気を漂わせながらも、決定的なホモエロティック・シーンが描かれないところが意外だった。BLって「アッー!」がすべてだと思ってたので……。正直、濃厚なベッドシーンが出てくるのだろうと身構えていた。これだと普通に愛の物語として読める。

ラシルド「アンティノウスの死」(1898)

熱に浮かされたハドリアヌス帝が、亡きアンティノウスと会話する。19歳のときにナイル川で溺死したアンティノウスは、愛人であるハドリアヌス帝によって神格化されていた。

今際の際に幻覚を見るとしたら、やはり愛する人のことだろうか。ハドリアヌス帝が最後、アンティノウスの女性化を望んでいるところが面白い。結婚や出産を考えると、性的には女性のほうが都合がいいのだろう。たまたま愛したのが男性だっただけで。

アンネマリー・シュヴァルツェンバッハ「ベルンハルトをめぐる友人たち」(1931)

17歳のベルンハルトと大学生のゲルトは互いに惹かれ合っていた。ピアノの才能があるベルンハルトはパリへ行き、画家志望のゲルトはベルリンへ行く。ゲルトは自分よりも才能のあるレオンに惹かれ……。

友人間で同性愛が許容されているのに驚いた。男性同士で付き合うのが当たり前のものだと認識されている。しかし考えてみれば、ヘルマン・ヘッセもBL的な関係を小説に書いていたし、この時代ではもうオープンだったのかもしれない。よく分からんけど。

同性愛を扱いながらも、若者の苦悩話に落ち着くところはドイツ文学らしいと思った。BLにもお国柄が出ている。

ジャネット・シェイン「水晶のきらめき」(1946)

1930年代。ボストンからニューヨークにやってきたジュディは、作家のニッキーと出会って結婚する。2人は幸福な結婚生活を送るも、ニッキーがかつての愛人マークと再会することで破綻する。マークは出版社の経営者だった。

ジュディとニッキーが元の鞘に収まるのは予想外だった。なるほど、マークは2人にとって試練であり、とりわけニッキーにとっては越えなければならない壁だったわけだ。ニッキーもマークもいわゆる「両刀」だけど、異性愛者の僕にはこの感覚がよく分からない。男性も女性も愛せるなんて器用にも程があるというか。

メアリー・ルノー「馭者」(1953)

ダンケルクの戦いで負傷したローリーは、クエーカー教徒のアンドリューと出会い、いい関係になる。また、ローリーはパブリック・スクール時代の先輩ラニヨンと再会し、旧交を温めるのだった。

これは偏見だけど、イギリスのパブリック・スクールとドイツのギムナジウムはゲイの温床ではないかと思っている。あと、こんな昔からクィア・パーティーがあったとは驚いた。

ところで、好きになった相手が性に目覚めておらず、ゲイなのかノンケなのか分からない場合はどうすべきなのだろう? 告白は遠慮すべきだろうか? なぜこういう疑問を抱いたのかというと、本作を読んで一橋大学アウティング事件を思い出したからだった。僕はあの裁判は異常だと思っていて、もし自分が告白された側だったら、被告と同じく周囲に言い触らしていただろう。これだけの衝撃を自分の胸の内に秘めておくなんて、とてもじゃないができない。誰かに相談するのは自然な反応だ。そもそもゲイであることを隠したいのなら、いかなる他人にも告白すべきではないと思う。ゲイとノンケは建前上対等な関係なのだから、アウティングという概念そのものに疑問を感じる。

森茉莉恋人たちの森」(1961)

大学を中退したパウロは、酒場で出会ったギドウの情人になっていた。あるとき、パウロは怪しく魅力的な中年男と遭遇する。ギドウによると、男の名はレイモンといい、これまで何度もギドウの運命を変えてきたのだった。一方、ギドウは上田夫人と不倫関係にあり、夫人はパウロの存在を疎ましく思っている。

本作だけ明らかに他の小説と文体が違っていて、作家と翻訳家ではここまで個性に差があるのかと思った。二階堂奥歯が好きそう……というより、二階堂奥歯好きが好きそうな文体。ほら、あの手の人たちって、文章力ないくせにやたらと凝った言い回しを使うじゃん。馬鹿のひとつ覚えみたいに。

本作で面白いのは、上田夫人が醜い外見をした年増女として描かれていて、そんな彼女がギドウとパウロに仇をなしているところだ。外見が醜い女は内面も醜い、そういう身も蓋もない造形になっている。BLにおける最大の敵、耽美な世界における最大の敵は醜女ということだろうか。BL愛好家の意見を聞きたいところである。

マリオン・ジマー・ブラッドリー、ジョン・ジェイ・ウェルズ「もうひとつのイヴ物語」(1963)

宇宙船の乗組員たちは、期せずして最後の人類になってしまった。彼らは全員男なので、絶滅するのも時間の問題。そんなとき、異星人が性転換手術を提案する。

もしかして、性転換手術はキリスト教的には正しくない行為なのか? 自然に反するから。人工中絶ですら駄目らしいので、あの宗教は時代に合ってない。西洋におけるBLの歴史は、キリスト教的価値観への反逆の歴史と言い換えることができよう。