海外文学読書録

書評と感想

シャンタル・アケルマン『アンナの出会い』(1978/仏=ベルギー=独)

アンナの出会い(字幕版)

アンナの出会い(字幕版)

  • オーロール・クレマン
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★★★★

映画監督アンナ(オーロール・クレマン)は最新作のプロモーションのためにヨーロッパ各地を回っていた。ドイツの地方都市では小学校教師のシュナイダー(ヘルムート・グルーム)とベッドを共にする。駅のホームで元カレの母親イーダ(マガリ・ノエル)と遭遇し、子を持つことの尊さを説かれる。ブリュッセルで母親(レア・マッサリ)と再会した後は、パリで恋人ダニエル(ジャン=ピエール・カッセル)と会う。

今まで観たシャンタル・アケルマンの映画は固定カメラによる長回しが特徴だった。それに対して本作はカメラが動いている。人物を追っている。ただし、固定カメラによる長回しは相変わらず行われていて、フレームを固定する場面では左右対称の構図を多用している。スタンリー・キューブリックをより先鋭化したような撮影だった。

各地で一対一のダイアローグを繰り広げていくのだが、浮き彫りにされたのは人間の孤独である。誰も彼も人生に満足している様子はなく、人間存在の根本にある孤独が原因で虚無的になっている。どれだけ人と触れ合おうと孤独は癒せない。飯を食って、仕事をして、セックスする。そういった生活の営みが虚しくなるほど孤独は根深い問題になっている。

子供を産めば孤独が解消されるのだろうか? 元カレの母親イーダは「女は結婚して子供を産まなきゃ駄目」とアンナに説く。いかにも保守的なおばさんだが、これは息子との婚約を反故にしたアンナへの恨み節でもあるのだろう。「子は生きがいよ」とイーダは言い放つ。しかし、ここまで自分の人生を子供に預けているのはどこか危うい。アンナは結婚して子供を産むという人生を拒んだ。しかし、彼女が孤独なのはそれが原因ではないだろう。たとえば、小学校教師のシュナイダーには娘がいる。彼はトルコ人に妻を寝取られて心にぽっかり穴があいていた。それを埋めるためにアンナを必要としている。子供がいても夫婦関係が円満でなければ意味がない。人生とはままならないもので、幸福のために何かを得ても、必ず別の何かが欠けてしまう。

人生の幸福が子供の有無に左右されるかと言ったら、そうは断言できない。子供は自立していずれ自分の元を去る。そのことを痛感しているのがアンナの母親で、彼女はアンナと再会したときどこかぎこちなかった。母親は別れ際、アンナに「愛してると言って」と頼んでいる。言葉に出してもらわないと不安だったのだろう。アンナは久しぶりの再会ですっかり距離が遠くなっていた。自分と独立した他者になっていた。だから無言の絆を感じられない。子供を産んでも孤独の解消には繋がらないようである。

幸せとは何だろう? アンナの恋人ダニエルも虚無の世界に生きている。彼はワーカホリックだが、別に仕事が生きがいというわけでもない。飯を食って、仕事をして、セックスする。この世に生まれたから生きるためにやるべきことをやっているだけである。ダニエルは「よりよい生活とは何だ?」と自問する。アンナとの間に子供を欲しがっている風だったが、仮に授かったとしても孤独は解消されないだろう。どの道、死ぬまで生きるをすることになるのだから。すなわち、飯を食って、仕事をして、セックスする。我々は同じルーティンを繰り返しながら老いていく。

最後にアンナは一人になる。ベッドで横になりながら留守電を聞いていく。色々な人のメッセージが入っていてなかなか聞き終わらない。交友関係は広いようだ。にもかかわらず、アンナは嬉しそうではない。無表情でメッセージを聞いている。部屋には音声だけが虚しく響いていた。このシーンが本作のすべてを物語っている。