海外文学読書録

書評と感想

今村昌平『にっぽん昆虫記』(1963/日)

★★★★

大正7年。東北の寒村。とめ(左幸子)は父・忠次(小池朝雄)と母・えん(佐々木すみ江)との間に生まれたが、出生の時期から父と血の繋がりがあるかどうか怪しまれる。成人したとめは製糸工場で女工として働く。母の陰謀で村の地主の家に足入れ婚をし、そこの三男坊の子を妊娠・出産、再び製糸工場へ戻って終戦を迎える。その後は7歳になった娘・信子(吉村実子)を忠次に預け、家政婦を経て売春婦になるのだった。

映像の質感が60年代とは思えないほど古めかしい(先日観た『探偵事務所23 銭と女に弱い男』と比べると顕著である)。そして、その古めかしい映像が社会の底辺を生きる女たちを生々しく捉えている。映像と内容が見事に合致していた。どうやってこういう質感にしたのか気になる。

人生の9割は親ガチャで決まると痛感した。とめの実家は田舎の貧困層である。父は知恵遅れ、母は淫乱女で上昇の見込めない環境だった。そういう家庭に生まれた娘は都会に出て売春で稼ぐしかない。なぜなら学もなければコネもないし、おまけに職能だってないのだから。貧しい娘の福祉として機能しているのが売春である。何もない女が生きていくには体を売るしかなかった。逆に言えば、何もない女でも体だけは売れるのである。最近はフェミニストが性売買を禁止しようと躍起になっているが、それは何もない女から生活の糧を取り上げることを意味している。女性の自立を謳うフェミニストが自立の手段を奪おうとしているのだから残酷だ。売春を禁じられた女性はいったい何をして食っていけばいいのか。どうやらフェミニスト生活保護に繋げたいらしいが、その程度の収入では人間らしい生活は送れないだろう。世の中には売春でしか稼げない人間が一定数いる。そのことを認めて多様な生き方を尊重すべきである。

本作は田舎者の描写がリアルだった。僕の母親は北関東生まれだが、喋り方や挙動など振る舞いがとめとそっくりである。ぶつぶつ文句を吐き捨てるところ、強烈な訛りで話すところ、気が強くて誰にでも食ってかかるところ。僕の母親はとめと違って昭和生まれだが、田舎者の遺伝子は確実に受け継がれている。正直、子供の頃からあのノンデリぶりにはついていけないものがあった。僕の世代で田舎者の成分はだいぶ薄れたが、母の故郷・北関東は相変わらず閉塞的な環境のままである。生活水準は底上げされたとはいえ、第一次産業で食っている地域は相対的に遅れている。濃密な近所づきあいによって成立する世界は息苦しいわけで、親ガチャに失敗すると大変苦労するのだ。生まれるなら都会の中流家庭が一番だろう。そうすれば売春で稼がなくて済む。人生において親ガチャほど重要なものはないと痛感する。

とめは中小企業を経営するおじさん(河津清三郎)の愛人になる。ところが、色々あって裏切られる。代わりに娘の信子が目をかけられるのだった。とめはおじさんのことを「お父さん」と呼び、信子はおじさんのことを「パパ」と呼んでいる。昔のパパは愛人の衣食住を保証していた。それに比べて現代のパパはデート代とセックス代しか払わない。現代のパパは昔のパパよりも甲斐性がなく、愛人の生活を丸抱えすることができなくなった。だからパパ活という割り切った関係になっている。そして、とめには信頼できる人間が忠次しかいなかったが、信子には「理解のある彼くん」がいた。この差は大きい。パパを見限った信子は彼くんと幸せになりそうな雰囲気である。やはり女は彼くんを捕まえることが幸福への近道なのだ。逆に言えば、とめの敗因は彼くんを捕まえられなかったところにある。寄る辺のない女は彼くんなしでは生きられない。そのことを痛切に感じさせる映画だった。

田舎から上京したとめが新興宗教にはまるのがリアルである。当時は創価学会折伏大行進が猛威を振るっており、貧困層やおのぼりさんを続々と入信させていた。とめが新興宗教にはまっているのはそれを反映しているのだろう。孤独な人間の心につけ込むあたり宗教は非常にたちが悪い。