海外文学読書録

書評と感想

シャンタル・アケルマン『ジャンヌ・ディエルマン、ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』(1975/ベルギー=仏)

★★★★

ブリュッセル。未亡人のジャンヌ(デルフィーヌ・セイリグ)は思春期の息子(ヤン・デコルテ)とアパートで二人暮らし。日中は家事や買いもの、ベビーシッターなどをしている。また、自宅で売春もしていた。そんな平凡な主婦の3日間に焦点を当てる。

風呂掃除やジャガイモの皮剥きといった日常を長回しで撮ることで、日々のフラストレーションを内側に溜め込んでいく様子を描いている。監督はフェミニスト映画を意図したらしい。僕は終わらない日常を終わらせる映画だと思った。

日常生活は同じことの繰り返しである。たとえば、平凡なサラリーマン。朝起きて、顔を洗って、朝食を作って、朝食を食べて、後片付けをして、身だしなみを整えて、倦怠感に包まれながら出勤する。平日はこのルーティンを寸分違わず繰り返す。ジャンヌのような主婦も同様だ。サラリーマンと違うのは家事に比重が置かれていることくらい。現代人はみなルーティンに縛られ、ロボットのような規則正しい生活を強いられている。人生は自由のようで自由ではない。生活のために同じ日々を繰り返している。そういう終わらない日常を終わらせるにはどうすればいいのか? ジャンヌは最後、非常手段を使って終わらせた。そうすることで現在のルーティンから抜け出したのだ。しかし、それは悲劇である。終わらせたルーティンの後にはまた別のルーティンが待っているのだから。我々は生きている限りルーティンの輪から抜け出せない。そのような絶望を感じる。

どのシーンもカメラは固定で人物を追わない。人物はフレームの中を動いたり、時にははみ出したりもする。小津安二郎を先鋭化したような撮影だ。そして、特徴的なのが長回しだろう。料理を作るシーンや風呂を掃除するシーン、食事をとるシーンなど、日常のルーティンを長回しで撮っている。フレームの固定と長回しは相性がいい。日常の四角四面な部分を上手く抽出している。また、人物が会話するシーンもじっくりと間を取っている。基本的に丁々発止のやりとりはしない。ぽつりぽつりと会話している。映画は全体としてゆったりとした時間で希釈されており、日常の退屈さが滲み出ている。

当然のことながら劇伴もない。すべて生活音である。歩く音、ベルが鳴る音、ドアを開け閉めする音。ジャガイモの皮を剥く音、靴を磨く音、皿を洗う音。音楽らしい音楽はラジオをつけたときしか流れない。それもそのはずで、我々の日常には劇伴などないのだ。すべてが散文的で面白味がない。無機質な日常に劇伴の入り込む余地などないのである。日常に劇伴をつけると途端に嘘臭くなってしまう。

2日目まで売春の様子はドアでシャットアウトされて見えない。何が起きているのか分からないまま時間だけが経過している。3日目になってドアの向こうを見せるのだが、その様子がまた衝撃的だった。そして、クライマックスとなるあのシーン。ここはわりとあっさりしていて、一瞬の爆発を鏡越しに映している。使い古された手法とはいえ、鏡に映る映像は直に映すよりもインパクトがあった。