海外文学読書録

書評と感想

丸谷才一『笹まくら』(1966)

★★★★★

私立大学の事務員・浜田庄吉は45歳の既婚者。彼の元に昔の恋人・阿貴子の訃報が届く。戦時中、浜田は徴兵忌避者として日本全国を逃げ回っており、その際、阿貴子と出会って恋仲になっていた。一方、現在の浜田は大学の職員人事に翻弄されている。課長に昇進するかと思いきや、地方に左遷されることになり……。

それから城山に登って、宇和島市を、と言うよりもむしろ、かつて宇和島市であった黒い面積を眺め、明るい青の海を眺めた。途中の家並が消え失せたせいで、海は今までよりもいっそう近くなったように見える。小さな練習機が三機、穴がいくつもあいている草原(それがつまり飛行場だ)で焼け焦げている。山も街も、そして海も、静まりかえっている。戦争は終ったのだ。日本軍はなくなってしまい、ぼくにはもう争うための相手がいない。つまり、ぼくが勝ったというわけなのだろう。彼はちょうど不戦勝で横綱に勝った若い力士のように、空虚な心、空虚な表情でいた。日本軍との争いでもし自分が勝つとすれば、それはただ一つこういう形でしかあり得ないことは今まで何度も考えていたことなのに、今こうしてそれが現実の事態になってみると、その日まで自分が生き残る可能性などじつは信じていなかったことがよく判った。(pp.135-136)

徴兵忌避者の戦後を題材にしている。面白いのがその手法で、過去と現在を区切りなく行き来するところがすごかった。現在の浜田は平凡なサラリーマンだが、戦時中に徴兵忌避をしていたので居心地が悪い。職場の人間に何かと擦られるし、それが人事にまで影響している。一方、過去の浜田は徴兵忌避者として全国を逃げ回っていた。最初はラジオの修理をして食いつないでいたが、途中から香具師に砂絵を習い、砂絵師となって逃避行を繰り広げている。そして逃走から5年目、阿貴子という運命の女と出会うのだった。現在の出来事が直線的に進んでいくのに対し、過去の出来事は断片的に、かつ時系列がバラバラに挿入される。しかも、現在のパートと過去のパートの境目は曖昧で、いつの間にか切り替わっていた。普通だったら読みづらくなる構成だが、本作はすらすらと読みやすいのだから驚きである。長編2作目にして作家としての技量がトップレベルにまで達している。巷ではどこの馬の骨とも分からない作家気取りが創作について講釈を垂れているが、個人的にはこのレベルの作家しか創作について語るべきではないと思う。沈黙は金なり。分をわきまえるべし。

浜田の徴兵忌避は、戦場で人を殺したくない、大日本帝国の悪に加担したくないという正義感が動機になっている。彼はインテリだったのだ。徴兵忌避とは日本という国全体を敵に回すことであり、彼は5年もの間身分を偽って孤独な戦いを強いられている。それはある種の英雄性を帯びている……はずだった。戦後間もない頃は左派的な価値観が支配的だったから風当たりも少なかった。ところが、戦後20年も経つと世相も変わって徴兵忌避が恥になっている。浜田は職場で肩身の狭い思いをしていた。同じ年頃の職員はみな兵役経験者である。つまり、日本男児としての通過儀礼を果たしている。徴兵忌避者の浜田はコミュニティの内在的価値観を逸脱した存在、いわば非国民のような存在として後ろ指を指されているのだ。本作はこういった彼の立場が過去と現在の交錯によって浮き彫りにされるのだから面白い。日本という国は過去の戦争から自由になって経済的に上り調子になった。それに対し、徴兵忌避者の浜田は過去から自由になれていない。20年前の行動が彼の出世を阻み、周囲からの蔑みの視線を生んでいる。まるで前科者であるかのように。浜田にとって徴兵忌避の過去は呪いと化している。

浜田の逃避行がロマンティックなのは阿貴子という女がいたからだ。年上の女。非処女。浜田は彼女で童貞を卒業した。個人的にヒロインをこのように使うのは乗り切れないが、60年前の小説だから仕方がないのだろう。とはいえ、浜田がある事件を機に過去を引き受ける展開は感動的で、ラストはばっちり決まっていた。過去が現在を支配しつつ最終的には止揚する。本作はそういった構成の上手さがある。本作は過去という呪いを解く物語であり、全体的に手法とテーマが噛み合っているところが良かった。