海外文学読書録

書評と感想

ジョン・アップダイク『帰ってきたウサギ』(1971)

★★★★

ペンシルベニア州ブルーアーの郊外。ウサギことハリー・アングストロームは印刷工として働いていた。彼の母は病床にあり、妻のジャニスはギリシャ系のスタヴロスと浮気をしている。折しもアメリカはアポロ計画で宇宙船を月に飛ばし、一方でベトナム戦争の泥沼に陥っていた。レストランでスタヴロスと出くわしたウサギは、リベラルな彼に愛国的な弁舌を振るう。その後、ウサギに浮気を打ち明けたジャニスは家出するのだった。

ジルがたずねる。「なぜ泣いているの?」

「きみはなぜだ?」

「世界があんまり汚れているし、あたしはその一部だからよ」

「もっといい世界があると思うかい?」

「あるはずよ」

「しかし」と彼は考える。「なぜだい?」(1 pp.287-288)

『走れウサギ』の続編。前作から10年後を舞台にしている。

ベトナム戦争や人種差別など、アメリカの同時代を活写した小説で、前作に比べて社会問題への言及が多かった。そもそも何が一番驚いたって、中年になったウサギが政治的に保守化していたところだ。彼は車に国旗のステッカーを貼り、ベトナム反戦運動には憎悪の感情を抱き、国家の悪口を言われるとかっとするような男になっている。ウサギは当時のサイレントマジョリティを体現していた。ここで言うサイレントマジョリティとはすなわちニクソン大統領の支持層で、ブルーカラーの白人保守層のことである。ベトナム戦争では彼らやその子供たちが下級兵士として従軍していた。徴兵されなかったのは裕福な大学生や都市部のホワイトカラー、それに反体制的なヒッピーたちである。ウサギはそいつらのことを売国奴として苦々しく思っていた。ウサギにとってはアメリカこそが唯一の国であり、その「正義」を素朴に信じている。あまりに思想が偏っていてぎょっとするものの、どうやらウサギこそが当時のマジョリティのようで、本作はそんな「普通の人間」を主人公にしたところに意義がある。

ウサギの家にスキーターという黒人の指名手配犯が転がり込んでくる章が面白かった。ここでは奴隷制から続く人種的不平等について多く言及される。ウサギにとってスキーターは、インテリのスタヴロス以上に手強い相手だ。というのも、スキーターは兵士としてベトナムに従軍し、国内では黒人として日々辛酸を舐めている。そういう苦労から生活の知恵みたいなものができあがっていて、彼の言葉には真実を見通すような奥行きが備わっている。その点、スタヴロスは頭でっかちのインテリで、その言葉は上っ面をなぞっているだけだった。ウサギはかつての奴隷制について、「過去は過去」と未来志向の言葉を述べるものの、その理屈は傍から見ていてどこか苦しい。そもそも奴隷制があったから現代の(当時の)公民権運動があるわけで、アメリカの病巣は根深いのだ。本作はベトナム戦争に人種差別と、「普通の人間」の生活に政治問題を持ち込んだところが光っている。

スタヴロスによると、ウサギはなんでもいいから自分を自由にしてくれるような災難を望んでいるという。実際、本作ではいくつか災難が起こっていた。ウサギがベトナム戦争を支持しているのも、おそらくそういった願望の表れだろう。日本ではロスジェネの論客・赤木智弘が、2007年に「31歳、フリーター。希望は戦争」というパワーワードを引っ下げて物議を醸した*1。現代の格差社会では地位が固定化されて下剋上できない。しかし、ひとたび戦争になれば地位が流動化し、非正規雇用の人間でも上に立つことができる。そんな内容の論文である。ウサギが災難を望んでいるのもこれに近いのではないか。「自由の国」は言うほど自由ではないことが分かって暗い気分になった。

*1:『若者を見殺しにする国』【Amazon】所収の論文。