海外文学読書録

書評と感想

小津安二郎『東京暮色』(1957/日)

東京暮色

東京暮色

  • 原節子
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★★★

東京。銀行の重役・杉山周吉(笠智衆)には長女・孝子(原節子)と次女・明子(有馬稲子)がいる。長女は結婚していたが夫と折り合いが悪く、2歳の子供を連れて実家に身を寄せていた。一方、明子は不良グループと付き合いがあり、その中の一人と交際して子供を妊娠している。妊娠の事実は誰にも明かしていない。どうやら雀荘の女主人・喜久子(山田五十鈴)が幼い頃に自分を捨てた母かもしれず……。

片親全否定映画で迫力があった。小津安二郎って思ったよりも保守的だ。不良グループもどこか牧歌的で、とても太陽族が流行っていた時代とは思えない。そして、杉山家はプチブルのわりに貧乏臭い。もしかしてこれ、当時の水準でも時代遅れだったのではなかろうか。本作を見ると、同時代の日活が極めてモダンだったことが分かる。たとえば、石原裕次郎が出ている映画(『勝利者』『俺は待ってるぜ』『嵐を呼ぶ男』)はこんなに貧乏臭くない。戦後民主主義がはち切れんばかりである。小津の描いた日本は当時の実態だったのか、あるいは作家性による誇張なのか。どう判断していいのか分からない。

父と母が揃ってこそ子供が健全に育つ、という家族観は理解できないでもない。自分の実体験からもそれは頷ける。でも、片親だから子供がまともに育たないこともないはずで、要は愛情よりも経済力の問題ではなかろうか。片親家庭は経済的に苦しい。経済的に苦しいと子供は不良になりがちである。とはいえ、周吉は銀行の重役を務めるだけあってプチブルだ。経済力に問題はない。となると、欠けているのは母親の愛情だ。長女の孝子は特にその影響はないが、次女の明子は愛の欠如が原因で非行に走っている。母は明子が3歳のときに不倫相手と出奔した。明子は母の顔を覚えてない。それを成人した現在まで引き摺っている。妊娠して精神が不安定になり、長らく姿を消していた母が目の前に現れた。そのダブルパンチが明子を揺さぶったのは想像に難くない。明子を孕ませた恋人も責任感がなく、今後のことを考えたら絶望的である。こういうのを見ると射精責任の重大さに気づいて身につまされるが、ともあれ、明子は悩みを一人で抱えて行き詰まっている。中絶は心情的に避けたいし、出産してもシングルマザーで育てることは確定だ。子供は自分と同じ片親家庭の子供になる。杉山家には片親の呪いがかけられているのだ。明子が袋小路に追い詰められる様子は見ていてきつかった。

この手のフィクションにしては珍しく母と和解しないところが目を引いた。母が弔問のために花を持って杉山家を訪れる。応対した孝子は正座をして険しい表情である(原節子がこんな表情をするとは驚きだ)。母が歩み寄ってくるのを許さない。その表情から読み取れるのは断固とした拒絶の意思である。その後、母は東京から離れるべく現在の亭主(中村伸郎)と列車に乗る。孝子が見送りに来るかもしれないと気もそぞろだ。ところが、孝子は姿を現さない。母と孝子は和解しないまままた離れてしまう。本作は人生の苦味を感じさせる作風になっていて意外だった。

小津安二郎の映画は久々に見たが、やはり撮影が独特だった。とにかくカメラを動かさない。ショットは頻繁に切り替えるものの、どのショットも固定カメラである。人物を追ってパンしたりしないのだ。その代わり、会話のシーンは切り返しがやたらと多い。これが小津の美学なのだろうが、僕は見ていて息苦しさを感じてしまう。整然としすぎているのも考えものだと思った。