海外文学読書録

書評と感想

ピエトロ・ジェルミ『鉄道員』(1956/伊)

★★★★

鉄道運転士アンドレア(ピエトロ・ジェルミ)はこの道30年のベテランだった。長男マルチェロ(レナート・スペツィアリ)はニートをしており、長女ジュリア(シルヴァ・コシナ)は妊娠するも流産してしまう。幼い末息子のサンドロ(エドアルド・ネヴォラ)は父のことを尊敬していた。ある日、アンドレアが運転する列車に若者が飛び込み自殺する。アンドレアはそこから調子を崩すことに。一方、マルチェロの元には借金取りが訪れ、ジュリアは夫婦仲がこじれて別の男と会っている。何もトラブルがないのは妻のサラ(ルイザ・デラ・ノーチェ)だけだった。一家は崩壊の危機を迎える。

家族ドラマ。小津安二郎の映画は中産階級を扱っているわりに画面が貧乏臭かったけれど、本作は労働者階級を扱っているわりにさほど貧乏臭さがなかった。同じ敗戦国なのにどういうことだろう? この貧乏臭さは生活水準がどうとか経済的にどうとかのレベルではなく、あくまで画面構成の話である。本作に比べると小津安二郎の映画は徹底して貧乏臭い。画面からカビの匂いが漂ってきそうである。これは日本の和室文化・着物文化と関係ありそうな気がする。

家族の崩壊と再生をクリスマスに重ねて描いている。最初のクリスマスは円満に過ごせた。ところが、その後色々あってバラバラになる。これで一家は崩壊かと思われたが、また次のクリスマスでは円満に過ごせた。ちょうど喧嘩と仲直りを家族サイズで行っている。人生には誰しも浮き沈みがあって、一生穏やかに暮らすことはできない。誰かが起こした波紋がさざ波となり、波と波がぶつかって関係にひびが入る。子供の頃、我々日本人は今の幸せが永遠に続くものと思っていた。一生豊かな生活が送れるものだと信じていた。しかし、人生はそう甘くない。少子高齢化、失われた30年、一億総活躍社会。外的な要因によって我々の人生は大幅な下方修正を強いられた。今では子育ても容易ではないし、定年退職した老人も生活資金がなくてあくせく働いている。我々は上の世代の面倒を見ているが、下の世代は我々の面倒を見てくれるだろうか。少子化が進行するこの社会で。今では誰も彼もが将来に不安を抱いている。家族関係に限らず人生とはままならないものである。現実は映画のようにハッピーエンドにならない。本作を観てそのことを思い知った。

アンドレアはこの道30年のベテラン運転士だが、一度の過失で左遷されることになった。彼にとっては不本意な結果である。アンドレアは今まで自分のことを特別だと思っていた。ところが、本当は何でもない存在だと気づいた。彼はこのとき50歳である。おそらく初めての挫折なのだろう。普通は20代で自分の無価値さに気づくが、彼の場合は50歳にしてようやくだった。彼の職場は国鉄だから競争がない。だから気づくのが遅れた。翻って資本主義社会の最前線で働く我々は早めに挫折する。自分の代わりはいくらでもいて、交換可能な部品として生きていくことを余儀なくされる。我々はあくまで大衆の一人に過ぎない。資本主義社会は競争社会であり、競争社会は多くの人間から尊厳を奪っていく。

アンドレアの幸福な最後は人生の手本にしたいほどだ。だが、現実は自殺しない限り死に方は選べないわけで、今から老後が不安になる。