海外文学読書録

書評と感想

ロマン・ポランスキー『袋小路』(1966/英)

★★★★

古城に中年のジョージ(ドナルド・プレザンス)と若い妻テレサフランソワーズ・ドルレアック)が暮らしている。そこに車でギャング2人がやってきた。1人は片腕を負傷した大男のリチャード(ライオネル・スタンダー)。もう1人は腹部を撃たれて車から出られないアルバートジャック・マッゴーラン)。リチャードはジョージたちを脅して仲間の救援を待つことにする。

『水の中のナイフ』をより露骨にした男性性の寓話。初期のロマン・ポランスキーが男性性にここまで執心していたのは興味深い。主人公のジョージがとにかくヘタレで、ギャングに抵抗せず言いなりになる。男性性を発揮せずにいる。60年代後半から70年代にかけてのアンチヒーロー像(ダスティン・ホフマン的な)を先取りしていたのではなかろうか。ドナルド・プレザンスの弾け方が面白い。

ジョージに男性性が欠如しているのは序盤の女装に象徴されている。妻のテレサが彼に女物の服を着せ、顔にメイクを施していた。そんなとき、城内に大男のリチャードが侵入してくる。見た感じ腕っぷしが強そうだが、怪我で片腕を吊るしていた。勇気を出して殴りかかれば撃退できたかもしれない。ところが、ジョージはそんな素振りもしなかった。リチャードを恐れて言いなりになっている。テレサから腰抜け呼ばわりされてもまったく立ち向かわない。恐れることを正当化している。

本作は『水の中のナイフ』と同じく限定された空間での権力関係を描いている。城内ではリチャードが場を支配していた。ところが、女のテレサは時折その権力関係を乗り越えて場を撹乱させる。ジョージはびびって言いなりのままだったが、テレサのほうはリチャードの命令に背いていた。それが如実に現れたのが、城に5人の来客があったときだろう。ここでテレサはリチャードを使用人扱いする。リチャードはしぶしぶその役割を引き受ける。権力関係が擬似的にではあるが逆転した。テレサはジョージと違って機転を利かせることができたのだ。後にリチャードの上着から拳銃を盗んだのもテレサである。彼女は男同士の権力関係を超越した場所におり、状況を変えるジョーカーのような役割を担っている。

「男なのにチキンも殺せないの」と客に揶揄されたジョージだったが、終盤ではひょんなことから男性性を発揮する。リチャードを殺害したのだ。オカマだったジョージはこの瞬間男になったのである。ところが、ジョージはテレサに事後処理を促されても放心したまま、呆けたような表情でその場に突っ立っている。その後は発狂して暴れた。ジョージは男になることの重みに耐えきれなかったのだ。このアンチヒーロー像が強烈で、当時は男性性の問い直しが行われた時代なのだろう。60年代後半と言えば、欧米諸国でフェミニズム運動が活発化した。それに呼応して文学ではネオ・ハードボイルドが勃興し、映画ではダスティン・ホフマンがスクリーンを席巻することになった。本作はその動きをいち早く先取りしている。