海外文学読書録

書評と感想

ミハイル・レールモントフ『現代の英雄』(1840)

現代の英雄 (岩波文庫 赤 607-1)

現代の英雄 (岩波文庫 赤 607-1)

 

★★★★

カフカース地方を旅する「私」は、道中で二等中尉のマクシム・マクシームイチと知り合う。「私」はマクシームイチからグレゴーリイ・ペチョーリンの逸話を聞かされるのだった。金で買える享楽に倦み飽きたペチョーリンは、異教徒のベラに惚れて彼女をものにするも……。

「やはり、その、フランス人ですかな、退屈などという流行をもちこんだのは?」

「いや、イギリス人です」

「ほうほう、なるほどね!………」と彼は答えた。「たしか、連中はいつも、札つきの飲みすけぞろいだったでしょうが?」(p.282)

集英社版世界文学全集(江川卓訳)で読んだ。引用もそこから。

古代の英雄が自分の能力を存分に発揮した神的人物だとすれば、現代の英雄とは暇を持て余した「無敵の人」なのだと思う。ペチョーリンは社交界の享楽にも、戦地でのスリルにも満足できず、人生に退屈しきっていた。貴族階級で高い資質を持っているのに、それを発揮する場がなかったのだ。そんな彼がやることといったら、うぶな令嬢を相手にした恋愛遊戯くらい。他人の愛情を弄び、人間関係を意図的に混乱させ、挙げ句の果てには決闘をして死人まで出している。ペチョ―リンは自分を高揚させる「敵」を欲していたけれど、それは敵と戦うことで存分に能力を発揮できるからだろう。その相手が友人のクルシニツキイであり、不幸にも彼はペチョーリンのエゴによって命を落とすことになる。人生に退屈しきっているペチョーリンは、そういう自棄的な生活しか送れなかった。彼は貴族階級だから財産はあるものの、孤独で失うものは何もない。人妻に懸想しているものの、それに執着するわけでもない。何のために生きているのか分からない無為な人生。現代の英雄とは、そういった虚無を抱えた「無敵の人」なのである。

「無敵の人」は現代日本にも溢れていて、通り魔や殺人といった事件をしばしば起こしている。最近だと、低能先生がHagexを刺殺した事件なんてまさに典型例だ。低能先生九州大学出身の秀才であり、高い資質を持っている点では本作のペチョーリンに通じるものがある。一億総活躍社会とは言うものの、現実は社会で能力を発揮できない余計者が多い。ご多分に漏れず、低能先生もそういった余計者だった。退屈を持て余した彼は、はてなブックマークトロールをして鬱憤を晴らしていたのである。衰退していくこの日本で、どうすれば満足のいく人生を送れるのか。これは各々が考えるべき課題だと思う。

「私」がペチョーリンに絶大な関心を抱いてるのって、結局のところ、他人の人生こそが最大の娯楽だからだ。「私」とペチョーリンは、一瞬すれ違った程度の関係でしかない。にもかかわらず、「私」はペチョーリンの人生に執着している。この辺はSNS時代の現代と変わらなくて、僕もTwitterで自分と無関係な人の人生を観察している。コンテンツとして他人の人生を消費している。自分でも趣味が悪いとは思ってるのだけど、しかしこれが文学と同じくらい面白いから困っているのだ。特に有名人よりも無名一般人の人生のほうが面白い。現代社会においては、一般人こそが現代の英雄なのである。