海外文学読書録

書評と感想

ヘルマン・ヘッセ『知と愛』(1930)

★★★

マリアブロン修道院では、年若いナルチスが助教師として働いていた。そこへ良家の子弟ゴルトムントが預けられる。知の人ナルチスと愛の人ゴルトムントは、友情で結ばれるのだった。やがてゴルトムントは修道院を抜け出し、放浪生活をしながら数々の女と情事を重ねる。放浪の果てにゴルトムントは、木彫りの親方ニクラウスに弟子入りする。

ゴルトムント「あなたは詭弁家です、ナルチス! こんな道を進んだのでは、ぼくたちは近づくことはできません」

ナルチス「どんな道をとっても近づきはしない」

ゴルトムント「そんなふうに言わないでください!」

ナルチス「ぼくは真剣なのだ。太陽と月とが、海と陸とが、近づき合うことのないように、互いに近づき合わないのが、われわれに課せられたことだ。われわれふたりは、ねえ、君、太陽と月、海と陸なのだ。われわれの目標は、互いに溶け合うことではなくて、互いに認識し合い、相手の中に、その人のあるところのもの、つまり相手の反対物と補足とを見、それを尊び合う修練をすることにあるのだ」(pp.127-128)

新潮世界文学全集(高橋健二訳)で読んだ。引用もそこから。

本作には人生論と芸術論、そしていくばくかの神学論が含まれている。ナルチスは学問を始めとする「知」を代表しているが、その「知」はあくまでキリスト教世界を支える「知」である。西洋科学と言い換えることもできよう。一方、「愛」を代表するゴルトムントは、母親の不在によるマザーコンプレックスを心に抱えており、それゆえに女性たちとの情事に依存している。彼は芸術の道に入り、才能を親方に認められるも、それに一生を捧げることに疑問を抱く。そして、ゴルトムントが再放浪の果てにナルチスと再会したとき、芸術を通して自身のマザーコンプレックスが昇華されるのだった。

本作はこのような構築的な内容になっていて、人生とは何か、芸術とは何か、そういう人間の存在意義を浮かび上がらせている。特徴的なのが、清濁併せ呑んでいるところだ。人間は堕落がないと悟りを開くことができないとし、不倫にせよ殺人にせよ、罪を犯した先に光があるとしている。この辺、仏教を扱った『シッダールタ』と一脈相通ずる部分があって興味深い。堕落についてはおそらくヘッセの持論なのだろう。

僕はこう見えて芸術の愛好家なので、本作で言及された芸術論には感銘を受けた。要約すると、すべての芸術の根本には死滅に対する恐怖が横たわっており、芸術の本質は無常なものを永遠化することにあるという。確かにこれは思い当たる節があって、我々が古代ギリシャの芸術に触れられるのも、永遠化の試みゆえだろう。ほとんどは時の淘汰によって失われたとはいえ、残るべきものはしっかり残っている。翻って視点を現代に戻すと、果たして今の芸術は後世まで残るのかという疑問がある。たとえば、千年後に村上春樹は残っているだろうか? おそらく彼ほどの作家でも忘れ去られているだろう。そう考えると、有象無象の芸術家たちは永遠化する可能性がもっと低いわけで、何のために創作しているのか分からなくなる。

それにしても、放浪の道を選んだゴルトムントは、自由に対して不安を感じなかったのだろうか。確かに自由を得たことで行動の制約はなくなったけれど、その反面、衣食住は安定しなくなった。身の安全も保障されなくなった。我々は労働という不自由を受け入れることで、衣食住の安定、ひいては身の安全を手に入れている。つまり、自由と引き換えに生活の安定を手に入れている。そういう構造があるので、ゴルトムントの自由にはどこか割り切れないものを感じた。

序盤でナルチスが、「学問の本質は差異の確認」と断言していたのは刺さった。社会学なんてもろにそうだ。僕はある事情から社会学を勉強しようと思っていたので、折に触れてこの言葉に立ち返ってみたい。自分がやっていることは差異の確認であることを自覚したい。この差異が、生きづらさの原因であることを暴きたい。