海外文学読書録

書評と感想

ジョン・ウィリアムズ『ストーナー』(1965)

★★★★

貧しい農家に生まれたウィリアム・ストーナーは、1910年、19歳のときにミズーリ大学に入学する。当初は農学を専攻していたが、シェイクスピアの詩と出会うことで文転することに。第一次世界大戦末期に博士号を取得し、母校の専任講師の職に就くのだった。やがてストーナーは一目惚れした女イーディスと結婚するが……。

ストーナーは記憶の糸をたどるように、部屋を見渡し、窓の外にも目をやった。「三人で話したときに、デイヴは言った。大学は一種の隔離施設で、社会に適応せざる者、半端者が世間から身を隠す場所だ、というようなことを……。しかし、それはウォーカーのことじゃない。デイヴなら、ウォーカーを世間の側の人間と見るだろう。われわれは、あの男をここに引き入れるわけにはいかない。引き入れたら、ここは世間と同じ実体のない場所になってしまう。希望を保つ唯一の手立ては、あの男を締め出すことだ」(p.197)

挫折した教師の妥協と無力感に満ちた人生が題材だけど、翻訳がとにかく素晴らしくて原書のポテンシャルを存分に引き出していた。本作は物語の起伏ではなく言葉の魅力で読ませるタイプの小説だ。そういう点ではアメリカ文学よりもイギリス文学のほうに近く、イアン・マキューアンジュリアン・バーンズが褒めるのもよく分かる。一人の男の凡庸な人生を非凡な文章で綴った静謐な佳作といったところだろう。本作が21世紀になって翻訳されたのは喜ぶべきことだ。これが原書発刊当時だったら酷い日本語になっていたはずだから。東江一紀の訳業は現代の翻訳に恥じないものだった。日本人にとっても時に恵まれた作品だと言える。

貧農出身のストーナーは成り上がり者だけど、しかし、象牙の塔に身を捧げてからは公私ともに追い詰められる。職場では人間関係の軋轢から不遇をかこち、家では毒婦のイーディスに嫌われて忍耐の日々を送っている。ストーナーは職場と家庭で嫌がらせを受けて袋小路に入り込んでいた。彼は唯一、学生の教育に慰めを見出し、策略を弄して学科主任の鼻を明かしている。とはいえ、基本的には世界に対する無力さが日々の生活を覆っており、順風満帆とは程遠い。そして、この絶望は彼の人生を通り過ぎていった二度の世界大戦とも共鳴し、人生とはままならないものだという思いを強くする。結局のところ、我々は世界がもたらす不合理な力には抗えないのだ。こういった諦観は、自分の道を切り開いていくアメリカン・ドリームとは対極を成している。つまり、本作はアンチアメリカ・アンチアングロサクソン的な物語なのだ。そこには同国の歴史、あるいは社会の風潮に対する辛辣な眼差しが窺える。

それにしても、本作は時々おっと思わせる文章に遭遇して幸せな気分になる。以下はストーナーが不倫相手と初めて抱き合う場面。

黒に近い濃褐色だと思っていたキャサリンの瞳は、深い菫色だった。ランプの淡い光を受けて、それが潤んだきらめきを放つ。ストーナーが頭を動かすと、まなざしの下でその瞳が色を変え、だから安息の中でもそれはけっして静まることがなさそうに見えた。遠目に冷たく生白く映るキャサリンの肌は、半透明の膜の向こうで光が流れるように、皮下に温かな赤みをたたえている。そして、その抜けるような肌と同様、ストーナーがキャサリンそのものだと思っていた穏やかさ、落ち着き、抑制の仮面の下には、ぬくもりと遊び心とユーモアが息づき、容貌との思わぬ落差ゆえにそれがひときわ強い力を宿していた。(p.228)

この前後の視角の転換はまるで映画だ。アメリカ文学は映画とは切り離せない。