海外文学読書録

書評と感想

鈴木清順『悪太郎』(1963/日)

★★★★

大正初期。素行不良で神戸の中学を退学になった紺野東吾(山内賢)が、豊岡の中学校校長の家に預けられる。編入試験を経てそこの中学に通うことになった東吾は風紀部に目をつけられることに。また、校医の娘・恵美子(和泉雅子)とも文学を通じて親しくなる。東吾は作家志望の文学青年だった。

原作は今東光の同名小説【Amazon】。

シネマスコープの特徴を生かした構図が多くて面白かった。基本的に映画は登場人物が横に並ぶから、画面も横長のほうが映えるのだろう。その際、被写体とカメラの距離も重要で、寄るときは寄るし引くときは引く。それを組み合わせてメリハリをつけている。本作の場合、少し離れた場所の2人を中距離から捉えたショットが絶品で、そこから2人が接近していくシーンは横長ならではだ。また、屋内のシーンも窮屈さを感じない。たとえば、小津安二郎の映画はスタンダードだが、総じて屋内(和室)のショットは狭くて見窄らしかった。それに対し、シネマスコープだと和室を映しても広くて貧乏たらしく見えない。このメリットは計り知れないだろう。映像表現の主流が横長になって本当に良かった。

文学青年というと鬱病の青瓢箪というイメージだが、東吾は闊達自在な性質でその類型から外れていた。旧制中学の4年生だからおそらくミドルティーンだろう。しかし、彼は煙草を吸うし、童貞は卒業しているし、常に短刀を携帯している。女性との交際も堂々としていた。彼は自他共に認める不良である。現代人から見ると不良には見えないが、当時の規範に反抗しているから不良なのだろう。そんな不良が文学青年をやっている。将来は三文文士になりたいらしい。不良のわりに弁が立つのは読書の賜物で、彼は風紀部の連中を何度もやり込めていた。いざというときには短刀を出して刺し違える覚悟も見せている。東吾はさわやかな風貌でありながらやるときはやる性格をしており、鬱病の青瓢箪とは正反対のイメージだった。

本作はそんな文学青年の人生修業という体になっている。大きな柱は風紀部とのいざこざと恵美子との恋愛である。前者は持ち前の器量で跳ね返すが、後者は当時の社会規範に阻まれて成就できない。東吾は大人と子供の合の子だったが、それゆえに大人の世界の条理には敵わなかったのだ。不良が無双できるのは子供の世界だけ。学校の風紀部はやり込めることができたが、上京してからは大人との喧嘩でボコられている。田舎ではあれだけ輝いていた東吾も東京では大衆に埋もれていて悲しい。結局のところ、大人になるとは凡庸になるのと同義なのだろう。段々と角が取れて世間の規範と折り合いをつけていく。もう短刀を持ち出すこともない。上京後のエピソードは短かったが、東吾の先行きが垣間見えて興味深かった。

恵美子の読んでいた本はストリンドベリの『赤い部屋』である。調べたら大正5年に日本語訳が出て以来新訳が出ていない。『赤い部屋』の原書は1879年(明治12年)出版だった。ストリンドベリって当時は流行っていたのだろうか。よく分からない。