海外文学読書録

書評と感想

ヴィム・ヴェンダース『夢の涯てまでも』(1991/独=米=日=仏=豪)

★★

1999年。インドの核衛星が墜落するかもしれず、世界は終末的状況を呈していた。ヴェネツィアから車で出発したクレア(ソルヴェーグ・ドマルタン)は強盗2人組に頼まれてパリまで現金を運ぶ。途中、トレヴァー(ウィリアム・ハート)という男を拾う。パリに帰ったクレアは恋人の作家ユージーン(サム・ニール)の元へ。その後まもなくトレヴァーを追ってベルリンに行く。そこで私立探偵ウィンター(リュディガー・フォーグラー)と会い、東京までトレヴァーを追いかける。トレヴァーは賞金稼ぎに狙われるお尋ね者だった。彼は目的があって世界各地を飛び回っている。

上映時間288分(4時間48分)である。劇場公開のときは158分(2時間38分)だったので大幅な増量だ。いくら何でも5時間弱は常軌を逸している。ディレクターズカットという文化はやめるべきではないか。製作費が2300万ドル(1ドル120円換算で27億6千万円)なので、なるべくカットしたくない気持ちは分かるが……。

マイナーな頃のヴィム・ヴェンダースは物語より間合いを重視していたが、メジャーになってからは物語に寄せてきたような気がする。というのも、最終的にクレアを救ったのが物語なのだ。夢中毒によって自分を見失ったクレアは、ユージーンが書いた物語によって正気を取り戻す。物語を否定していた『ことの次第』が嘘のようだ。とはいえ、断片的なパートがユージーンの語りによって統合された効果は大きく、5時間弱の長尺と相俟って、壮大な旅路に昇華されているところは特筆すべきである。物語を紡ぐユージーンがいなかったら破綻していただろう。映画における語り手の効用を目の当たりにした。

日本のパートは見ていてきつかった。東京ではよりによってカプセルホテルとパチンコ店を舞台にしている。どちらも異様な光景であり、日本の恥部である。何もこんな場所を世界に公開しなくてもいいだろう。ただ、外国人にとってエキセントリックに見えることは確かで、その視覚効果は抜群である。日本人の僕ですらそう見えるのだから。しかし、それを日本代表みたいな感じで晒されるのはきつい。もう少しマシな場所があっただろうに。日本の変な部分が紹介されてしまった。

その後、東京から地方の山村に舞台が移るが、そこは勘違い東洋趣味に溢れている。劇伴がエキゾチックだし、旅館も過剰に和が演出されていてどこか不自然だ。極めつけは笠智衆演じる老人が薬草を煎じて失明していたトレヴァーの目を治している。東洋医学に夢を見すぎでは……。全体的にこの山村パートは茶番で見るに堪えなかった。

トレヴァーは盲目の母親に映像を見せるために世界各地の映像を収集している。それが世界各地でロケする言い訳として機能しているところは感心した。ただ、母親亡き後は夢の映像化に執心してしまうところが解せない。20世紀はフロイトの時代だから夢を重視する姿勢は分かる。でも、夢の中にしか存在しないイメージ(=現実から失われたイメージ)を映像にしたってしょうがないと思う。お前ら他に楽しみがないのかよ、と。1999年の破滅を回避し、無事年が明けたときはみな音楽でどんちゃん騒ぎしていた。あれこそが人生だろう。夢に耽溺してしまうのは極めて後ろ向きである。

中途半端なSFテイストは余計だったが、オーストラリアの荒野は「世界の終わり」にふさわしい光景だった。さすが『マッドマックス』を生んだ国。オーストラリアはロケーションで得をしている。