海外文学読書録

書評と感想

ラーラ・プレスコット『あの本は読まれているか』(2019)

★★★

冷戦期。作家のボリス・パステルナークは愛人のオリガと仲睦まじかったが、『ドクトル・ジバゴ』の出版を巡って意見が対立する。ボリスは国内での出版が見込めないため、密かにイタリアで出版しようとしていた。一方、アメリカではCIAが『ドクトル・ジバゴ』を使ったプロパガンダ作戦を目論んでいる。工作員を派遣し、『ドクトル・ジバゴ』をソ連に持ち込もうとしていた。

わたしの躊躇を感じ取って、彼は身を引いた。「きみがわたしを愛していることはわかっている。わたしはそう信じているよ」彼は言った。

「愛しているわ」わたしは彼を安心させるように言った。そして、それを証明するかのように、彼の荒れた唇に口づけをした。

「わたしたちの生活を変えるようなことは何もしないでくれ、お願いした。わたしにはとても耐えられない。どうかモスクワに戻らないでくれ」

「戻らないわ」わたしはそう言って、彼の手を強く握った。「わたしはここにいる」

わたしたちはその晩、小さな家で会う約束をして別れた。けれど、彼は現われなかった。(p.415)

史実を元にしている。西側のパートも東側のパートも女性に焦点を当てていて、これは女の物語なんだなと思った。

CIAにとって文学は人工衛星に匹敵する武器だった。当時のアメリカは宇宙開発競争や核軍拡競争などでソ連に大きな遅れをとっていたため、文学を用いたプロパガンダによって逆転しようと目論んでいる。CIAの職員たちは文学で世界を変えられると思っていた。

一方、ボリスの愛人オリガは文学にそのような幻想を抱いていない。『ドクトル・ジバゴ』の外国出版は自殺行為だと思っており、出版を阻止しようと独自に動いている。オリガはボリスのせいで3年間矯正収容所に入っていたから、反政府的な活動を恐れていた。今度は長期刑を食らうんじゃないかとびびっている。

オリガがボリスに求めているのは、本のことよりも私のことを考えてということだ。これ自体は正常なエゴである。しかしいざ物語として読むと、正義の前に立ちふさがる障害ではないかと首を捻ってしまう。要は公益性の高い仕事を保身のために邪魔してるわけで、読んでいてストレスに感じるのだ。『ドクトル・ジバゴ』は偉大な文学作品なのだから大義のために殉じてほしい。女の身勝手で偉大な作品を葬らないでほしい。ここにおいて作中人物のエゴと読者のエゴが激しくぶつかっている。冷静に考えると、人間は自分の命が一番だからオリガの行為は普通の行為なのである。ところが、読者のほうはそれを受け入れられない。ここに越えられない壁があって、社会とはエゴとエゴのせめぎ合いなのだなと痛感する。

西側のパートは章ごとに語り手が変わっていて、誰が語っているのか即座に把握できないのがもどかしかった。語り手を変える手法が功を奏していたとも思えない。三人称視点で統一したほうがまだ読みやすかったのではないか。また、東側のパートでは『ドクトル・ジバゴ』をソ連国外に持ち出そうとし、西側のパートでは逆に『ドクトル・ジバゴ』をソ連に持ち込もうとしている。両者は対流関係にあるのだけど、それが生かされてなかったのはもったいなかった。

スパイ小説の枠組みを取っているわりにスパイ行為は大して盛り上がらず、結局はボリスとオリガのロマンスが前面に出ている。これをミステリとして売り出すのはいかがなものかと思った。ミステリを期待するとどうにも消化不良である。