海外文学読書録

書評と感想

シドニー・ルメット『十二人の怒れる男』(1957/米)

★★★★

裁判所。被告はスラム街の少年で父殺しの罪に問われている。法廷での審議が終わって12人の陪審員が議論することに。証拠と証言から少年が不利だった。全会一致で有罪になると思いきや、陪審員8番(ヘンリー・フォンダ)だけが少年の無罪を主張する。そこから一つ一つ証拠と証言を検討していく。

古代ギリシアアリストテレスが熟議民主主義の重要性を説いていたが、民主主義の本質は2300年経っても変わらないのだろう。何らかの意思決定をする場合、他人の意見に耳を傾け、自分の意見を主張し、議論を深めることで合意に達する。特にアメリカの陪審制は多数決ではなく全会一致が原則だ。一人でも反対していたら合意したことにはならない。議論に議論を重ねて合意に達する必要がある。

最初に無罪を主張した陪審員8番も確信があったわけではなかった。ただ、議論せずに合意してしまうことに懐疑的だった。今回は死刑がかかっている。何も議論せず投票だけで決めていいことではない。陪審員8番のやっていることは今風に言えば「逆張り」である。しかし、「逆張り」によって証拠を見つめ直すことこそが重要なのだ。彼は田原総一朗テリー伊藤のように「逆張り」で場を撹乱させる。そして、その撹乱によって場を支配していた有罪という確信が揺らいでいく。他人の意見に耳を傾け、自分の意見を主張し、議論を深めることで意見を変えていく。自分が間違っていたことを恐れない。この精神はとても大切だと思う。

刑事裁判の原則は「疑わしきは被告人の利益に」だが、日本に住んでいるといまいちピンとこない。というのも、刑事裁判の有罪率が99.9%だからだ。起訴されればほぼ確実に有罪である。そういう社会に住んでいると、「疑わしきは被告人の利益に」が信じられない。むしろ、疑わしきは罰していけの精神で司法が成り立っているように思えてしまう。それが証拠に日本でも冤罪がちらほら出ている。最近では足利事件が有名だ。捜査の段階で偏見があり、無理やり自白を引き出して死刑のベルトコンベアーに乗せている。ここで必要なのは「逆張り」の精神だろう。みんなは有罪だと確信しているが、敢えて無罪ではないかと疑ってみる。証拠や証言を一つずつ検証していく。

ただ、そういうことをするには一定の知能が必要である。一般市民にそれができるとは思えない。証拠や証言の不備を見つけるのはとてつもなく難しいのだ。陪審員8番みたいに問題発見能力が高い人は稀で、大抵の人は場の空気に流されて意思決定してしまう。エビデンスベースでものを考えられる人は意外と少ない。そう考えると、本作で議論が成り立っているのはすごいことだと感心する。

陪審員3番(リー・J・コッブ)が最後まで強硬だったのは息子との折り合いが悪かったからだ。スパルタ教育で育てた息子は家出している。彼にとって父殺しの事件は他人事ではなかった。こういう設定を織り込んでくるあたり、ドラマとしてよくできている。