海外文学読書録

書評と感想

ジョン・ウィリアムズ『アウグストゥス』(1972)

★★★★★

紀元前44年3月15日。ユリウス・カエサルが暗殺された。遺言によって18歳のオクタウィウスが後継者に指名される。オクタウィウスは友人のアグリッパ、マエケナス、サルウィディエヌス・ルフスらと共に事態に対処しようとするも、ローマでは執政官のマルクス・アントニウスがライバルとして立ちはだかっており……。

僕は驚きどおしだ。いまやオクタウィウス・カエサルの名を耳にしない日はない。彼はローマにいる、いや、いない。彼はこの国を救った、いや、いつか滅ぼす。彼はいまにユリウス・カエサルの暗殺者を処罰する、いや、逆に報奨を与えるだろう、などなど、さまざまに取り沙汰されている。どれが真実であるかはともかく、この謎めいた若者は、ローマを好奇心の虜にしてしまった。ぼく自身も例外ではない。(p.106)

全米図書賞受賞作。

骨太の歴史小説で面白かった。日本でもお馴染みの古代ローマを題材にしているので、『ローマ人の物語』【Amazon】に親しんだ読者なら存分に楽しめるだろう。逆に、ある程度予備知識がないと読むのが大変かもしれない。事前に関連書籍で学習するか、Wikipediaを参照しながら読むのをお勧めする。

本作は全編が手紙や手記で構成された書簡体小説である。そこは『三月十五日 カエサルの最期』を連想させるけれど、それはともかく、書簡体小説とは「信頼できない語り手」の集積ゆえに、今読むと刺激的で面白いのだった。歴史に名を残す多数の人物が、自分の限られた視点からそれぞれ物事を語っている。個々の語りはどれも一人称のフィルターを通しているために歪んでおり、誰かの証言を絶対視することはできない。しかし、物事を複数人の目から捉えたとき、何らかの「真実」らしき合意が浮かび上がってきて、歴史とは様々な人間の思惑によって編まれた織物だということが分かる。誰か一人の主観によって世界を解釈できるほどこの世は単純ではない。傍から見たら幸福そうでも、当人は不幸に感じているなんてことはざらにある。そういう世界の多様性を「信頼できない語り手」の集積で表現したところが、他の歴史小説ではお目にかかれない本作の白眉だろう。しかもそれだけではなく、文体も緻密で読み応えがある。古代ローマを扱った小説の中では、『ハドリアヌス帝の回想』の次に好きかもしれない。

第一部は派手な権力闘争が展開していて、オクタウィウスの前にライバルのマルクス・アントニウス、共和派のキケロなどが立ち塞がり、それぞれ自分の思いを手紙に綴っている。オクタウィウスの仲間は自分たちに正当性があると信じているし、一方のマルクス・アントニウスも同様のことを手紙で主張している。結局のところ、これは単純な善と悪の戦いではない。勝ったほうが世界を支配するサバイバルゲームなのだ。こういうことが分かるのも、それぞれの証言を読者に対して公平に提示しているからで、本作は形式と内容が上手く噛み合っている。

第二部は地味な家庭劇に終始していて、権力者の家庭に生まれた女の悲哀を感じさせる。この時代の女は、有力者同士を結ぶ政治の道具であり、また男児の出産を期待された「産む機械」でもあった。特にオクタウィウスの娘ユリアはその役割に翻弄されている。父の命令でアグリッパに嫁いだかと思えば、夫の死後にはティベリウスのところへ嫁がされていた。それゆえにユリアは奇行に及び、父の告発で流刑に処されている。これはもちろん史実通りなのだけど、本作ではオクタウィウスとユリア、双方の言い分が食い違っていて、意外などんでん返しが生まれている。ここも形式と内容が上手く噛み合っていて面白かった。

75歳まで生きたオクタウィウスは後継者に恵まれなかった。結局、冷酷なティベリウスが彼の後を襲うことになる。ラストは後世の視点からユリウス・クラウディウス朝の皇位問題を皮肉っていて、パンチの効いた締めくくりを見せてくれた。