海外文学読書録

書評と感想

ルシア・ベルリン『すべての月、すべての年』(2015)

★★★★

短編集。「虎に噛まれて」、「エル・ティム」、「視点」、「緊急救命室ノート、一九七七年」、「失われた時」、「すべての月、すべての年」、「メリーナ」、「友人」、「野良犬」、「哀しみ」、「ブルーボネット」、「コンチへの手紙」、「泣くなんて馬鹿」、「情事」、「笑ってみせてよ」、「カルメン」、「ミヒート」、「502」、「B・Fとわたし」の19編。

医者は聴診器を耳につけていて、聞こえていなかった。肺の音を聴きながら、ふてぶてしい笑みを浮かべてわたしの胸を手で触った。わたしは怒ってぱっと身を引いた。医者はスペイン語で老女に言った、「ふしだら女め、誰にもおっぱいを触られたことがないみたいな顔をしやがる」。わたしもスペイン語で言い返した。ざっと翻訳するなら、「そっちこそ触るんじゃないよ、このゲス野郎」。(p.26)

『掃除婦のための手引き書』の姉妹編。A Manual for Cleaning WomenAmazon】に収められた43編から19編を訳出している。コピーライトを見ると、一番古い短編が1977年、新しい短編が1999年のようだ。

以下、各短編について。

「虎に噛まれて」。「わたし」が赤ん坊のベンを連れてエルパソにやってくる。そこで従姉のベラ・リンと会うのだった。「わたし」がベラ・リンに妊娠していることを告げると、ベラ・リンは勝手に堕胎の手続きを行う。胎児の命を次々と絶っていく病院は地獄のような異界で、そこでの出来事は「わたし」にとってのイニシエーションなのだろう。決断の是非はどうあれ、そこで自分と胎児の運命が決せられた。自由意志による自己決定。「わたし」にとっては流れに抗った事実こそが重要だったのではないか。本作はベラ・リンのお節介に辟易するものの、会話が生き生きとしていて読ませる。

「エル・ティム」。「わたし」は元修道院の中学校でスペイン語を教えている。当初は順調に授業が進んでいたが、少年院帰りのティムが来てから学級崩壊する。教師と不良少年の間に信頼が芽生える瞬間というのは、啓示にも等しい瞬間であり、ある種の崇高ささえ感じる。そして、本作は中学校と向かいにある小学校の対比も面白い。小学校が牧歌的なのに対し、中学校はピリピリしている。思春期の難しさ。

「視点」。どういう視点で物語るのが効果的か? という話から始まり、ある平凡な女性の物語に読者を引き込む。その語り口はさすがだった。そして、本作はまた現在進行形の創作なのである。形式的には完結してるけど。

「緊急救命室ノート、一九七七年」。緊急救命室でのエピソード。生死が交錯する現場というのは毎日が「祭り」のようなものではないか。狂騒の中で生命のしぶとさを目の当たりにし、人体の神秘にしばしば驚愕する。その刺激がたまらないのだろう。一方で、健康な人間が救急車で運ばれてくる「ノイズ」も存在するのだけど。

「失われた時」。病院で事務員として働く「わたし」は、四四二〇号室の患者ミスター・ブラガーを見てケンチュリーヴを思い出す。ケンチュリーヴは「わたし」の幼馴染だった。5歳だとまだ「恋」ではないのだろうけど、相手にピュアな感情があったのは確かで、それが大人になってから思い出すとき「恋」に変換されているのだと思う。というか、そもそも「恋」とはいったい何なのか。

「すべての月、すべての年」。静けさを求めてラス・ダカスに来たエロイーズはセサルという男と知り合い、彼と海にダイブする。親しくなってからさりげなく大金を融通してもらうセサルの強かさに面食らった。しかし、エロイーズのほうはそれなりに充実した時を過ごせたのでまあ良かったんじゃないかな。人間界から自然界に逃避できたことに対する謝礼。それにしたって強かではあるけど。

「メリーナ」。アルバカーキに住んでいた頃、「わたし」はボーというビートニクと知り合う。ボーはメリーナという人妻に恋をしていた。数年後、「わたし」はサンタフェでメリーナと顔を合わせる。オチで笑ってしまった。世界の狭さが可笑しかったし、何よりメリーナが男たち憧れの姫になっているところが面白い。

「友人」。ロレッタがアナとサムの老齢夫婦と知り合う。アナが80歳でサムが89歳だった。ロレッタは夫婦の家に誘われ、以降友人関係を続ける。おしどり夫婦と言えば聞こえはいいけれど、相手に依存してると亡くしたとき自立できないから困ってしまう。とはいえ、微笑ましいことは確かだ。ロレッタの事情などお構いなしに、アナとサムが善意を持って接してくる。思惑はすれ違いながらも関係は維持される。夫婦のお節介に心が温まる。

「野良犬」。薬物で捕まった「わたし」が治療施設に入る。そこではメタドンを使った新しい治療プログラムが行われていた。20世紀の羨ましいところは、「明日はなんとかなるさ」と本気で思えたところだ。どん底の生活を送っていても何とか生きていける。そういう根拠のない楽観ムードが漂っている。しかし、21世紀になると明日への不安しかない。経済が成長して物質的には豊かになったものの、これ以上の生活は望めないという絶望感がある。発展途上の社会のほうがまだ希望が持てた。先進国はもう成長し切ってしまい、あとは衰退する未来しかない。そんななか、我々はどういうモチベーションで生きていくべきなのだろう?

「哀しみ」。海辺の観光地。ドイツ人のワッカー夫妻がある姉妹と知り合う。姉はドロレス、妹はサリー。2人は20年ぶりに再会していた。「互いに満ち足りている人たちは、怒りや退屈で煮えくり返っている人たちと同様に口数が少なくなる」そうだけど、姉妹はそれらと正反対だった。何かと衝突しながらも肉親らしい気の置けない関係を築いている。それを眺めるワッカー夫妻は幸福な勘違いをしていた。こういったすれ違いを描くところが著者の特徴かもしれない。ところで、本作にセサルが再登場していて驚いた。すっかり年老いておまけに金持ちになっている。

「ブルーボネット」。4人の子を育て上げたマリアは詩の翻訳家でもあった。彼女は自分がスペイン語に翻訳した詩の作者ディクソンに会いに行く。ディクソンの変人ぶりが堂に入ってる。いかにも孤高の詩人という感じだ。かといって自閉的なコミュ障というわけでもなく、人間関係ではある程度の妥協もできている。マリアに腹を立てながらも完全に突き放さないところが可愛らしい。

「コンチへの手紙」。コンチ宛の手紙。ニューメキシコ大学に入学した「あたし」は、大学新聞の記者ジョーといい関係になり……。書簡体小説のいいところは徹頭徹尾主観で書かれてるところだ。学ぶことの喜び、周囲との摩擦、盲目的な恋。それらが生々しい肌触りで伝わってくる。本作は最後の最後でジョーとすれ違うところが面白かった。往々にして人間は自分の希望通りには動かないのである。主観で見ているとそのことを忘れてしまう。

「泣くなんて馬鹿」。54回目の誕生日。「わたし」はバシルと会う。バシルはこれまで40年以上、誕生日にかかさずバラの花束を贈るか電話をかけてくるかしてきた。人間関係とはつくづく難しくて、どんなに長く友好的に付き合ってもちょっとしたことから関係が終わってしまう。本作はその関係の終わりを描いている。54歳と言えば酸いも甘いも噛み分けた歳だけど、さすがに40年来の付き合いだとつらいようだ(一方で、余命1年のサリーはハビエルと恋に落ちて絶好調なのである)。

「情事」。産婦人科で働く「わたし」とルース。ルースは人妻だったが引退した歯科医と逢引するのだった。ルースが陽気なだけにエフレムの悲しみが引き立つ。だってエフレムにはルースしかいないから。ルースは歯科医と人目を忍ぶスリルを味わいたい。一方、エフレムはバラの花束を職場に贈りつけるほどルースを愛している。この非対称ときたらもう! それはともかく、本作は狷介なB医師がいいアクセントになっていた。

「笑ってみせてよ」。ジェシーが高名な弁護士に依頼する。ジェシーの恋人カルロッタが警官に暴行した容疑で逮捕されたのだ。それには事情があって……。やはりアメリカを支えているのは「きっと上手くいく」という楽観のような気がした。アメリカ人は生まれたときからそういうポジティブな心構えを植え付けられてるのではないか。ジェシーの立ち回りもただ事じゃないし、そんなジェシーに惹かれる弁護士の気持ちも理解できる。人間を魅了する最大の事物はやはり人間。

カルメン」。妊娠中の「わたし」がヌードルズの頼みで麻薬取引をすることになった。「わたし」はエルパソに行く。危険を犯してミッションを達成したのに最後にあれでは報われない。

「ミヒート」。メキシコから移民して来た「あたし」はマノロと結婚するも、マノロは8年間服役することになる。「あたし」はマノロの仲間の居候をすることに。そして、赤ん坊ヘススを出産するも、ヘススには障害があって手術が必要だった。「カルメン」のテーマをより複雑化した短編である。今回は移民文学の色彩が強く、障害児がある種のギフトとして捉えられている。世間では高知能発達障害者のことをギフテッドと呼んでいるけれど、やはり神からの贈り物というニュアンスが強いようだ。障害も神からの贈り物。プラスに作用すれば夫婦や家族の絆を深くする。

「502」。「わたし」の不注意で車が事故を起こした。ワン巡査が処理に当たる。アル中仲間の互助会的な雰囲気とワン巡査のお人好しぶりが微笑ましい。

「B・Fとわたし」。70歳の「わたし」は歳のわりに声が若かった。「わたし」はトイレの床のタイルを交換するため、広告にあったB・Fに電話する。「わたし」もB・Fも声と実物にギャップがある。とはいえ、B・Fは予想以上のインパクトだった。

音井れこ丸『若林くんが寝かせてくれない』(2015-2018)

★★★

高校教師の須住は睡眠不足に悩まされていた。彼は学校で昼寝をしようとするが、女子生徒の若林が何かとちょっかいをかけてきて寝かせてくれない。若林は須住に好意を抱いていた。そんななか、西宮という女子大生が教育実習生として学校にやってくる。西宮はこの学校出身で、かつて須住に告白していた。

全5巻。

睡眠ラブコメ。当初は性欲を感じさせないゆるふわシットコムだったものの、3巻から路線変更して恋愛要素が強まっている。

2巻までの須住はぬいぐるみである。肥満体型で口髭を生やした中年男だ。女子生徒の若林に性的なちょっかいをかけられても動じない。それどころか、性欲なんてないものだとして振る舞っている。須住の欲望はただ安眠することだった。手を変え品を変え迫ってくる若林に対し、須住はぬいぐるみ的な愛らしさでいなしている。教師と生徒のプラトニックな関係。ここら辺は「終わらない日常」といった感じで微笑ましかった。

ところが、3巻から2人の関係が急変する。須住が若林に女を感じて勃起するのだ。須住は教師が聖職であるとして自制するも、ぬいぐるみから突然ペニスが生えてきた事実に変わりない。それまで性欲など微塵も見せなかった須住が急に生々しくなっている。こうなると「終わらない日常」に終点が見えるのも必定で、物語は三角関係を挟みつつ打ち切りみたいな最後を迎えている。

同じシットコムでも、『からかい上手の高木さん』【Amazon】や『かぐや様は告らせたい』【Amazon】が長続きしているのは性欲を描いていないからだろう。西片も白銀もぬいぐるみに徹しており、決してペニスを見せない。結果として「終わらない日常」がだらだらと続いている。とはいえ、両作が人気なのも確かであり、「終わらない日常」をネタ切れせずに書き続けるのは才能だろう。現時点で『からかい上手の高木さん』は17巻、『かぐや様は告らせたい』は25巻出版されている。そう考えると、わずか5巻で終わった本作は持続力に欠けると言わざるを得ない。

若林と西宮が須住に好意を抱いている理由は、彼に父親の面影を見ているからだ。加えて須住の肥満体型が言いしれぬ安心感を与えている。ちょうど我々が力士に好感を抱くのと同じ理屈である。肥満体型の男には愛嬌があり、ぬいぐるみのような親しみやすさがある。若林も西宮もファザコンが転じて恋愛にまで至っているわけで、本作は中年男性にとって夢のようなシチュエーションが描かれている。

睡眠不足に悩んでいた須住。彼が一番よく眠れた場所が若林の膝枕というのが最高にエモかった。

トレイ・パーカー『サウスパーク 無修正映画版』(1999/米)

★★★

アメリカ北部の田舎町サウスパーク。スタン(トレイ・パーカー)、カイル(マット・ストーン)、カートマン(トレイ・パーカー)、ケニー(マット・ストーン)がテレンス&フィリップの映画を観に行く。テレンス&フィリップはカナダの下ネタ芸人で、子供たちに人気だった。映画を観た子供たちは目に見えて言葉が汚くなり大人たちの顰蹙を買う。やがて大人たちは抗議活動を起こし、遂にはカナダとの戦争にまでエスカレートする。一方、地獄ではサタン(トレイ・パーカー)とサダム・フセイン(マット・ストーン)が地上の征服を企んでいた。

表現の自由を題材にする場合、敢えて反PCな表現をすることが一周回ってPCになる。そのことをこんなに早くから実践していたのに驚いた。

日本においても近年、フェミニストによる表現規制が盛んである。2019年に『宇崎ちゃんは遊びたい!』【Amazon】の献血ポスターが炎上したのは有名だろう。ポスターのデザインが過度に性的ではないかと物言いがついた。以降、フェミニストは性差別撤廃を旗印に公共の場からおたく的表現を排除しようと躍起になっている。最近では日経新聞に広告を載せた『月曜日のたわわ』【Amazon】が記憶に新しいところだ。フェミニストたちはSNSで、このような性的な漫画を新聞で広告すべきではないと文句をつけた。フェミニストはとにかく胸の大きな女性を嫌う。肌の露出も嫌う。それらがアニメ絵として公共の場に出てくると抗議の声を上げるのである。フェミニスト、特にTwitterで活動するツイフェミは矯風会の流れを汲んでおり、「男性=加害者/女性=被害者」というイメージ戦略によっておたく的表現を叩いてきた。フェミニストの多くは左派であり、本来だったら表現の自由を守るべき立場である。それが男性憎し・おたく憎しで表現規制を推進してきた。現在は右派が表現の自由を守り、左派が表現の自由を弾圧する。そんな捻れた状況になっている。政治的には左派でなおかつおたくの僕にとっては何とも居心地の悪い状況だ。

翻って本作で槍玉に挙げられているのはFワードである。大人たちは子供が汚い言葉を使うのを嫌い、その影響元となったテレンス&フィリップを処刑しようとしているのだ。そのためにはカナダとの戦争も辞さない。例によってだいぶ戯画化されているが、その中核に表現の自由や検閲の問題があるのは見逃せない。大人たちは自分たちが不愉快だからという理由で表現規制に乗り出しているのだ。そしてこの状況、先に述べた日本の状況とそっくりではなかろうか? 本作ではブラックジョークを主体に敢えて反PCな表現に徹し、そうすることでPCのバカバカしさを浮き彫りにしている。そのために映画はR指定になった。しかし、実はそういったレーティング自体が検閲であり、表現の自由に対する冒涜なのである。「自由の国」アメリカも言うほど自由ではなかった。日本よりだいぶマシとはいえ、PCによって自由が塗り潰されていくのは悲しいことである。

本作はミュージカルとしてもよく出来ていて、トレイ・パーカーの引き出しの多さに感心した。

ユッシ・エーズラ・オールスン『特捜部Q―檻の中の女―』(2007)

★★★

コペンハーゲン警察。カール・マーク警部補は捜査中のミスで一人の部下を失い、一人の部下を寝たきり状態にさせてしまった。署内で厄介者扱いされていたカールは、政治的な理由で開設された特捜部Qに配属される。特捜部Qは未解決事件を扱う部署で、部員はカール一人だった。カールとアシスタントのアサドが5年前に起きた政治家失踪事件を追う。

カールは再び雨雲に目をやった。地下か。そうやってやる気をなくさせるというわけか。俺を追い払う魂胆だ。不愉快な同僚は隔離房に監禁。だが、よく考えてみれば、上階と地下に、いったいどれだけの違いがある? もう、そんなことはどうでもいい。俺は俺で勝手にやってきたが、これからは何もしないという選択肢もある。(pp.31-32)

組織内のはみだし者が独立した部署で活躍するフィクションはたくさんある。しかし、その部署が一人親方というのは珍しいかもしれない。『攻殻機動隊』【Amazon】の公安9課にせよ、『機動警察パトレイバー』【Amazon】の特車二課にせよ、とにかく頭数は確保していた。翻って本作の場合、特捜部Qの部員はカール一人である。その下にアシスタントのアサドが雇用されているものの、彼はあくまで雑用であり身分としては民間人だ。このアサドがなかなかの曲者で、彼はアシスタントの立場から逸脱した越権行為に及んでいる。上司のカールは署内随一の切れ者だけど、このアサドも負けず劣らずだった。本作はホームズ&ワトソンのバディ形式を踏襲しながらも、両者が捜査官として優秀なところが肝だろう。くわえて、カールの元部下で病院で寝たきりのハーディも、安楽椅子探偵の素質を秘めている。組織内のはみだし者が未解決事件に着手し、真相に近づいていく。そのプロセスは警察小説の醍醐味という感じだった。

誘拐された政治家の視点から描いているところも本作の特徴だ。この政治家はなぜ自分が与圧室に監禁されているのか分からない。犯行グループによると、金目当てではないし、政治的な理由でもないようだ。それどころか、ある種の憎しみのようなものが伝わってくる。犯行グループは政治家を苦しめるため、定期的に与圧室の気圧を上げているのだった。しかも、カールが捜査に着手したのが2007年なのに対し、政治家が誘拐されたのは2002年である。無事に救助されるとはとても思えない。このパート、実は『モンテ・クリスト伯』の変奏になっているのだけど、その捻り方は『オールド・ボーイ』を彷彿とさせるものでなかなか意外だった。

カールが左遷された地下室と、政治家が監禁された与圧室はパラレルである。どちらも不本意な形で閉じ込められた。しかし、各々自分が置かれた状況に対して最善を尽くそうとしている。捜査する側と救助を待つ側、どちらも挫けない心を持っているところが本作に希望をもたらしている。

トーマス・マン『ヴェネツィアに死す』(1912)

★★★★

50歳の作家グスタフ・アッシェンバッハはミュンヘンに在住していた。ある日、彼は逃げ出したいという衝動に駆られて旅に出る。ヴェネツィアにたどり着いたアッシェンバッハは、ホテルで上流階級のポーランド人一家を目撃する。その中に14歳くらいの美少年がいた。アッシェンバッハは彼の美しさに衝撃を受け、遂にはストーキングするにまで至る。

恋する者の例に漏れず、彼は相手に気に入られたいと願った。そしてそれが不可能かも知れないという苦い不安を感じた。彼は自分の服に気分を若返らせてくれる小物を付け加えた。宝石を身につけ、香水を使った。昼間はたびたび身繕いにたくさんの時間を費やし、おしゃれをして、高揚し、緊張してテーブルに着いた。自分を魅了した甘やかな若さを前にすると、自分の老いてゆく体に吐き気を催した。灰色の髪や尖った顔立ちを見ると、恥ずかしさと絶望に突き落とされた。体を蘇らせたい、昔の自分を回復したいという衝動に突き動かされた。彼はたびたび、ホテルの理髪師を訪ねた。(p.97)

同性愛を題材にした小説であると同時に、エロスとタナトスの接近によって美を永遠にしようという小説でもある。

同性愛についてはアッシェンバッハが旅行に出る前に布石がある。というのも、作家の彼が作中人物として繰り返し描いたタイプの英雄が聖セバスティアンのような人物だった。地の文で、「そして聖セバスティアンの姿が、芸術一般の、とは言わないまでも、間違いなくいま問題としている芸術のもっとも美しい象徴である」と説明されている。言うまでもなく、聖セバスティアンは芸術でよくモチーフにされるゲイ・アイコンだ。オスカー・ワイルドテネシー・ウィリアムズ三島由紀夫などが作品に取り入れてる。3人が男色を好んだことは周知の事実だろう。序盤からアッシェンバッハにはゲイの資質があると示唆されている。

アッシェンバッハは少年の神々しいばかりの美しさに驚き、愕然となる。少年は14歳くらい。名前はタッジオで、古代ギリシャの彫刻みたいな造形美だ。アッシェンバッハは美だけが愛に値すると確信し、少年のストーキングを始める。そして、最終的には少年への愛、すなわちエロスの虜になってしまう。

ところが、エロスに近づくということは必然的にタナトスに近づくということでもある。そのタナトスの象徴がコレラだ。コレラとはインドからヨーロッパに進入してきた強大な暴力であり、植民地から宗主国に復讐しに来た死神である。アッシェンバッハはコレラに罹患してあっさり死んでしまうのだった。アッシェンバッハは死の間際まで少年を視界に入れている。海辺で戯れる少年を椅子に座って眺めながら死んでいる。アッシェンバッハは死ぬことで少年の美を永遠のものとした。美を体現する側ではなく、美を鑑賞する側が死ぬところが本作のポイントで、永遠の美とはすなわちその繰り返しによって保たれてきたのだろう。モナ・リザの絵画は滅びない。しかし、それを鑑賞する人間は滅びる。ここに芸術の本質が見て取れよう。

本作はプラトンからの引用が多くてだいぶ辟易したものの、同性愛に対してエロスとタナトスという普遍的な構造を用いたところは注目に値する。