海外文学読書録

書評と感想

トーマス・マン『トニオ・クレーガー』(1903)

★★★★

リューベック。大商人の父を持つトニオ・クレーガーは文学が好きで周囲から浮いていた。トニオは級友のハンスに好意を寄せるも、彼とは趣味が合わない。2年後、今度はダンスが縁でインゲに恋をするも、彼女とも心が通じないのだった。やがてトニオは作家になる。ミュンヘンに移り住んだトニオは画家のリザヴェータと友達になり、一般人と芸術家の間で揺れる自身の葛藤を告白する。

僕はふたつの世界の狭間にいて、どちらのことも故郷とは感じられず、そのせいで少しばかり辛い思いをしています。君たち芸術家は僕のことを一般人と呼ぶのに、その一般人は僕を逮捕したがる始末ですから……そのどちらのほうに、より苦い思いをさせられているのかはわかりません。一般人は確かに愚かです。でも君たち美の信奉者は――僕のことを憧憬を持たない鈍重な人間だとみなす君たちは――、一度よく考えてみるべきです。平凡なもののもたらす喜びへの憧憬以上に甘く、価値のある憧憬などない――そう感じてしまうほどに深い、運命によって否応なく定められた芸術家としてのあり方も存在するのだということを。(Kindleの位置No.1395-1402)

芸術家小説である。

トーマス・マンの中編小説は構成がしっかりしていると思う。少年期から中年期まで、人生の断面を重ねることで主人公が成長していく様を描くのが上手かった。

本作の場合、一般人と芸術家は人種が違うという前提がある。端的に言えば、一般人が世界に馴染めるのに対し、芸術家は馴染めないという前提だ。

トニオは少年時代、文学作品に親しみ、詩を書いていた。ところが、学校において詩を書くことは変人の証だった。そのためトニオは周囲から浮いている。そして、そんなトニオを尻目に周囲の人たちは世界に馴染んでいた。トニオは級友のハンスと親密になりたかったものの、お互い正反対の人間なのでそれも叶わない。ハンスは溌剌とした少年で誰からも好かれていた。彼は馬に夢中で文学とは縁遠かった。そして、トニオは数年後、インゲという少女に恋をする。ところが、彼女とも同様の壁を感じることになる。インゲも文学とは縁遠い人間だった。このハンスとインゲこそ一般人の代表であり、芸術家であるトニオは彼らの世界から疎外されることになる。

30歳になったトニオは女友達のリザヴェーダに弱音を吐く。自分は人間的なものと関わりを持たないくせに人間的なものを表現するのにうんざりしている。文学は天職ではなく呪いだった。自分は孤独で一般人とは分かり合えない。かといって完全な芸術家かと言えばそうでもなかった。芸術家と芸術を生業にしている人間は違う。芸術家は宿命を背負わされており、世界から疎外されるという代償を払っている。しかし、自分は芸術家にもなりきれていなかった。

ポストモダンを経由した我々からすると、芸術家と一般人はそんなに違う人種なのかという疑問がある。芸術家といえども、所詮は飯を食って糞をする人間に過ぎない。日々の金勘定に汲々とする一般人と変わらない。我々からしたら文学とアニメは等価だし、高級外車と軽自動車も等価である。芸術家を特別視することに何の意味があるのか。トニオの苦悩には優越者ならではの韜晦が含まれており、その俗物性こそが一般人の証なのである。

J・M・バリー『ケンジントン公園のピーター・パン』(1906)

★★

ケンジントン公園には蛇形池が合流しており、その遠い彼方には島があった。島ではすべての赤ん坊の元となる鳥が生まれている。ピーター・パンは生まれてから7日目に人間になることを逃れ、以来、何年経っても同じ年齢のままだった。ピーター・パンは人間と鳥のどっちつかずで妖精たちと暮らしている。ピーター・パンはある手段を使って島から脱出することに。

「君に指貫をあげたい」ピーターはおごそかにそう言って、メイミーに指貫を一つあげました。それからたくさん指貫をあげているうちに、楽しい考えが頭に浮かびました。「メイミー」とピーターは言いました。「僕と結婚してくれない?」

さても不思議なことに、同じ考えが同じこの時、メイミーの頭にも浮かんだのです。「いいわ」とメイミーはこたえました。「でも、あなたのボートには二人乗れるかしら?」(Kindleの位置No.1281-1285)

有名なピーター・パン物語のプロトタイプ。僕が知っているピーター・パンと全然違っていた。挿絵を見るとピーター・パンはでかい赤ん坊だし、妖精たちは総じてグロテスクな容貌をしている(挿絵はアーサー・ラッカムが描いている)。また、お馴染みの海賊フックやネバーランドも出てこない。話はケンジントン公園の紹介に始まり、妖精の生態を描写しつつ人間との交流が童話風に語られる。

本作は物語を楽しむというよりは世界観を楽しむ小説だろう。人間と妖精が共生し、ピーター・パンはそのどっちつかずとして生きている。彼はでかい赤ん坊のまま永遠に歳を取らない。島から脱出して母親に会いたがっている。一方、妖精たちはピーター・パンが公園に留まり、自分たちのために笛を吹いてくれることを望んでいた。

個人的には取るに足らない話でつまらなかったけれど、児童文学は対象読者が子供なので、自分の評価が正しいのかいまいち確信が持てない。こういう小説は子供が楽しめればそれでいいので、汚れちまった大人としては自信をもってつまらないと言えないのだ。自分がつまらなく感じるのは作品の出来が悪いせいなのか、あるいは趣味に合わないだけなのか。そんなわけで、本作は読む人を選ぶような気がする。

一番そそられたのが冒頭の「公園大周遊」で、これはテーマパークのアトラクションを見て回るような楽しみがある。また、妖精の生態を詳述してるところも読みどころで、妖精は人間に気づかれないよう生活している。人間が見ていないときは元気に跳ね回るし、見ているときはピタリと止まって花のふりをする。そういうファンタスティックな世界観が魅力的だった。

ところで、本作では以下のような語りを採用している。

ここで、わたしたちがどんな風にお話をつくり上げるかを申し上げておかなければいけません。それはこんなやり方です。まず最初にわたしがデイヴィドに話をします。それから、デイヴィドがわたしに話すのですが、まったくちがう話をする約束になっています。それからわたしが、デイヴィドのつけ足した部分も含めてもう一度語りなおし、そんなことを何べんも繰り返して、デイヴィドの話なのか、わたしの話なのか、わからなくなってしまうまでつづけます。たとえば、このピーター・パンのお話では、地の文と道徳的な感想の大部分がわたしのものです。全部が、ではありません。このデイヴィドという男の子は厳格な道徳家になることもできるからです。けれども、鳥だった時の赤ん坊の癖や習慣に関する面白い話は、おおむねデイヴィドがこめかみに手を押しあてて、一生懸命に考えて思い出したことです。(Kindleの位置No.251-258)

こういう特殊な語りが全然活かされてなかったのには拍子抜けした。

コレット『青い麦』(1923)

★★★★

16歳のフィリップと15歳のヴァンカは幼馴染のカップル。2人は夏の間、海辺の村でテニスやエビ捕りを楽しんでいた。思春期らしいプラトニックな関係を育むなか、フィリップの前にマダム・ダルレイが現れる。マダム・ダルレイはおよそ30歳。フィリップは彼女に惹かれるのだった。

フィリップはヴァンカにキスした。

快感のなかで、自分の欲望を満たそうとばかりする若者ゆえの荒々しさと、かつていきなり奪われたもうひとつのキスの、まだ鮮明すぎる思い出が混じりあう。だがくちびるで感じているのは、ヴァンカの口の形と、彼女が先ほどかじった果物の甘酸っぱさだ。ヴァンカの口はわずかに開き、キスの味という真新しい秘密を発見して、彼女ならではのその味を惜しげもなく彼に与えようと一生懸命動いている――暗がりのなかで、フィリップの心はぐらついた。

〈ぼくはもう〉と彼は思った。〈堕ちてしまいたい、ふたり一緒に。ああ! 早く堕ちてしまおう。そうならなきゃいけないんだし、彼女だってもう、そうなることしか望んでないんだから……ああ、ヴァンカのくちびるは、最初からなんとすてきで深みがあるんだ、巧いんだ……ああ! 堕ちてしまおう、早く、早く……〉(pp.148-149)

思春期の恋愛を扱っている。プロット自体はシンプルだけど、子供と大人の中間くらいの心情を繊細な文章で表しているのが良かった。

16歳のフィリップは自分が子供であることをもどかしく思っており、早く大人になりたがっている。幼馴染のヴァンカのことは〈生まれたときからの許嫁〉のように愛していた。この時点で2人の関係はプラトニックだけど、内心では熱く激しい思いを抱いている。テニスやエビ捕りに興じているとはいえ、もう無邪気に笑う子供ではない。大人たちの噂話とは裏腹に、2人は恋の世界に閉じこもっている。

マダム・ダルレイはそんなフィリップを大人の世界に引き上げてくれた存在だ。年齢はおよそ30歳。フィリップを見初めた彼女は、紆余曲折がありながらも彼の童貞を奪う。フィリップは16歳にして性の秘密を知ってしまった。フィリップはヴァンカとマダム・ダルレイの間で心が揺れるも、マダム・ダルレイにとってフィリップは一夜のお遊びでしかない。ただ童貞を食べたかっただけである。そんな彼女は恋の障害になる前にあっさり姿を消してしまう。

結局のところ、本作は少年少女のイノセンスが失われる話なのだ。フィリップは童貞を失い、ヴァンカは処女を失う。プラトニックな2人の関係に肉体的な快楽が入り込む。とはいえ、近代以降の社会において童貞と処女のセックスは少ない。たいていはどちらかにセックスの経験があって未経験者を導くことになる。童貞と処女のセックスなんておたく向けのラブコメにしか存在しないのだ。そういう意味でマダム・ダルレイの登場は必然であり、少年少女を脱皮させるカンフル剤になっている。

恋に燃え上がる2人に対し、大人たちが覚めた認識でいるところが面白い。つまり、フィリップとヴァンカが将来結婚するかどうかは不確かだと告げているのだ。2人が結婚することは大いにある。と同時に、結婚しないことも大いにある。それはそうだ。フィリップはまだ16歳。一方のヴァンカはまだ15歳。適齢期までに心変わりする可能性は十分にある。人生経験が豊富な大人からすれば、思春期の恋が儚いこともよく分かっているわけだ。現実において幼馴染同士が結婚することもまた少ないのであり、総じて夏の終わりの花火を見ているような感興がある。

ところで、本作は文章が素晴らしい。

「ころぶよ、ヴァンカ、靴のひもがほどけてる。待って……」

フィリップはさっとかがむと、エスパドリーユの白いウールのリボンを両方ともつかみ、やせて敏感そうな褐色のくるぶしの上で交差させて結ぼうとした。まるでほっそりした動物の脚のようだ。走ったり跳んだりするためにできていて、硬くなった皮膚には傷痕もたくさんあるけれど、それでも優雅な脚。華奢な骨格の上には脂肪がほとんどなく、きれいな脚の線を形づくるのにちょうどいいぐらいの筋肉がついているだけだ。そんなヴァンカの脚は、欲望を呼びさましはしないが、人が芸術作品の美しい様式に捧げる気持ちの高ぶりと似たものを、引き起こす。(p.64)

大人の脚になる前の少女の脚。イノセンスの何たるかを表した名文だと思う。

トーマス・マン『だまされた女/すげかえられた首』(1940,1953)

★★★★

日本オリジナル編集の短編集。「だまされた女」、「すげかえられた首 あるインドの伝説」の2編。

「その通りよ、かわいいおまえ! まあ、なんておまえは自由に大胆に率直にその言葉を口にするんでしょう。とてもわたしの口からは言えないわ。わたしは長い間その言葉を胸の奥深くに閉じこめてきました、その言葉が語る恥ずかしい幸せや苦しみの一切合切といっしょに。――みんなに隠してきたわ、おまえにさえも、厳重に隠してきたのだから、母親の年配の女としての気品を信じていてくれたおまえは、そんなばかなと、びっくり仰天するでしょうね。そうです、わたしは愛しています。熱く恋い焦がれています。天にも昇る気持になり、苦しみに胸をふさがれます。おまえがかつて青春の日々に愛していた時と同じなの。わたしの感情は、かつてのおまえの感情と同じで、理性の前では持ちこたえられないの。自然が奇蹟のように贈ってくれた魂の春をどんなに誇りにしていても、やっぱり苦しんでしまう、かつておまえが苦しんだのと同じように。それでおまえに、もうなにもかも話してしまいたくて堪らなくなったのよ」(pp.52-53)

以下、各短編について。

「だまされた女」(1953)

1920年代。ロザーリエ・フォン・テュムラー夫人は10年前に夫を亡くして以来、娘のアンナ、息子のエードゥアルドとともに寡婦暮らしを続けていた。ロザーリエは50歳。アンナは30歳である。ある日、ロザーリエはアメリカ人のミスター・キートンを息子の家庭教師につける。ミスター・キートンは24歳。ロザーリエはミスター・キートンに恋心を抱くのだった。

短編としての構成が良かった。理性と感情の対置、自然と愛の調和を通奏低音にしつつ、ロザーリエの境遇を『旧約聖書』【Amazon】のサラに重ねている。サラは90歳でイサクを産んだのだった。ロザーリエは自身の老い、特に生理が終わったことについて悩んでおり、それがミスター・キートンとの恋愛における心理的障壁になっている。現代人からしたら、ロザーリエはミスター・キートンに告白しても何ら問題はないだろう。恋に年の差は関係ない、という建前があるのだから。しかし、当時の人にとってはハードルが高かったはずだ。率直に言って、閉経した女が24歳の男に告白するのはとても大胆である。男からしたら子供を産めない女との恋愛は相当な抵抗があるのではないか。そこが『旧約聖書』のサラと違うところで、妊孕性の有無が作中に大きく横たわっている。

ヨーロッパとアメリカの対比も見逃せない。ミスター・キートンアメリカ人でありながらアメリカが嫌いで、ヨーロッパの重厚な歴史に惹かれている。アメリカにあるのはヒストリーではなく、短く平板なサクセス・ストーリーであり、景観の後ろには何もない。一方、ヨーロッパには深い歴史的なパースペクティブが備わっている。本作を読んで、ヨーロッパに憧れる人の気持ちが分かった。

「すげかえられた首 あるインドの伝説」(1940)

鍛冶屋のナンダと商人のシュリーダマンは親友同士。ある日、シュリーダマンが美しい娘シーターに一目惚れする。ナンダの仲介によってシュリーダマンとシーターが結婚するのだった。ところが……。

奇妙な三角関係の話である。というのも、首のすげかえによってナンダの体を手に入れたシュリーダマンは、その体を使ってシーターに快楽を与えている。シュリーダマンの頭がナンダの体を動かしているのだ。ここで疑問が生じる。果たして行為の主体はどちらにあるのだろう? 仮にフィフティ・フィフティだとすると、夜の営みは親友同士の共同作業になる。ここに一夫一婦制を超越した倒錯があって、事実上、シーターは2人の夫を持っていることになる。シーターはシュリーダマンの高貴な精神を愛し、ナンダの逞しい肉体を愛している。ナンダの頭とシュリーダマンの体が蚊帳の外とはいえ、それでもシーターが親友同士の共有物になっているところが面白い。精神と肉体がちぐはぐになることで新たな扉を開いている。

似たような話に『ジョジョの奇妙な冒険』【Amazon】がある。同作では首だけになったディオが宿敵ジョナサンの体を乗っ取って生き延びた。その体で子供まで残している。子供はジョナサンの血を引いているものの、同時にディオの息子として扱われていた。こういった宿敵同士(と同時に同じ釜の飯を食った友人同士でもある)の合作は神話めいていて心ときめくものがある。

『デクスター』(2006-2013)

★★★★

デクスター・モーガンマイケル・C・ホール)はマイアミ警察の血痕鑑識官。しかし、裏の顔は殺人衝動に取り憑かれたシリアルキラーで、野放しになっている殺人犯を密かに見つけて殺害していた。マイアミ警察には妹のデボラ(ジェニファー・カーペンター)も勤務しており、彼女は風紀課から刑事課への転属を考えている。そんななか、刑事のドークス(エリック・キング)はデクスターに疑いの目を向けていた……。

全8シリーズ96話。

原作はジェフ・リンジー『デクスター 幼き者への挽歌』【Amazon】。

面白かった。全体の構想よりもシーズンごとの脚本がよく練られていて、ほとんどのシーズンでショッキングな幕引きを迎えている。主要人物を退場させるタイミングが絶妙で、視聴者に与えるインパクトを最大化させる手並みが鮮やかだった。個人的には、ドークス、リタ(ジュリー・ベンツ)、ラゲルタ(ローレン・ベレス)の最後に驚いている。全体を通して見ると、鬱陶しいキャラはだいたい始末されていて、ストレスを感じさせない作りになっていた。

デクスターは少年期に父親ハリー(ジェームズ・レマー)から「ハリーの掟」を仕込まれており、己の殺人衝動を有効活用する手段を身につけている。法で裁けない凶悪犯罪者だけをターゲットにすれば殺人も許されるだろう、という目論見だ。殺人衝動を満たしつつ自身は警察に捕まらないようにする。シーズンごとにデクスターは様々なサイコパスと出会い、彼らと交流することで教訓を得ていく。そして、遂には「ハリーの掟」を乗り越え、新たなステージに立つことになる。

本作は怪物が様々な経験を経て人間性を獲得していく話である。各シーズンに出てきたサイコパスはデクスターのあり得たかもしれない姿だ。他のサイコパスに対して審判者のように振る舞い、殺害という罰を加えていくデクスターは、正義を執行しているようでいて、その実、自分の欲望を満たしているだけある。そこには強烈なジレンマがあって、善と悪の葛藤は臨界点に向かっていく。と同時に、デクスターは偽りの家庭生活を通して徐々に人間性を獲得していくのだった。面白いのは、デクスターが人間性を獲得すればするほど物語は悲劇に近づいていくところだ。デクスターが怪物から人間に生まれ変わり、善と悪の葛藤が臨界点に達したとき、その悲劇は最高潮を迎える。本作の衝撃的なラストは必然だろう。結局はそれまでに犯してきた罪を精算し、人間性を獲得した代償を払うことになった。殺人という最高にエゴイスティックな行為は周囲を否応なく不幸にする。幸福が手に入りかけた瞬間、愛するものが損なわれるのは随分な皮肉である。

シリアルキラーのデクスターはその後ろ暗い本性ゆえに孤独で、秘密を共有できる理解者、言ってみれば自分の半身を欲していた。最終的にその半身が妹のデボラになるところはよく出来ている。デボラの他にはハンナ(イヴォンヌ・ストラホフスキー)も理解者であり、デクスターは彼女との平穏な生活を夢見ることになるが……。やはり本作は脚本が素晴らしい。