海外文学読書録

書評と感想

コレット『青い麦』(1923)

★★★★

16歳のフィリップと15歳のヴァンカは幼馴染のカップル。2人は夏の間、海辺の村でテニスやエビ捕りを楽しんでいた。思春期らしいプラトニックな関係を育むなか、フィリップの前にマダム・ダルレイが現れる。マダム・ダルレイはおよそ30歳。フィリップは彼女に惹かれるのだった。

フィリップはヴァンカにキスした。

快感のなかで、自分の欲望を満たそうとばかりする若者ゆえの荒々しさと、かつていきなり奪われたもうひとつのキスの、まだ鮮明すぎる思い出が混じりあう。だがくちびるで感じているのは、ヴァンカの口の形と、彼女が先ほどかじった果物の甘酸っぱさだ。ヴァンカの口はわずかに開き、キスの味という真新しい秘密を発見して、彼女ならではのその味を惜しげもなく彼に与えようと一生懸命動いている――暗がりのなかで、フィリップの心はぐらついた。

〈ぼくはもう〉と彼は思った。〈堕ちてしまいたい、ふたり一緒に。ああ! 早く堕ちてしまおう。そうならなきゃいけないんだし、彼女だってもう、そうなることしか望んでないんだから……ああ、ヴァンカのくちびるは、最初からなんとすてきで深みがあるんだ、巧いんだ……ああ! 堕ちてしまおう、早く、早く……〉(pp.148-149)

思春期の恋愛を扱っている。プロット自体はシンプルだけど、子供と大人の中間くらいの心情を繊細な文章で表しているのが良かった。

16歳のフィリップは自分が子供であることをもどかしく思っており、早く大人になりたがっている。幼馴染のヴァンカのことは〈生まれたときからの許嫁〉のように愛していた。この時点で2人の関係はプラトニックだけど、内心では熱く激しい思いを抱いている。テニスやエビ捕りに興じているとはいえ、もう無邪気に笑う子供ではない。大人たちの噂話とは裏腹に、2人は恋の世界に閉じこもっている。

マダム・ダルレイはそんなフィリップを大人の世界に引き上げてくれた存在だ。年齢はおよそ30歳。フィリップを見初めた彼女は、紆余曲折がありながらも彼の童貞を奪う。フィリップは16歳にして性の秘密を知ってしまった。フィリップはヴァンカとマダム・ダルレイの間で心が揺れるも、マダム・ダルレイにとってフィリップは一夜のお遊びでしかない。ただ童貞を食べたかっただけである。そんな彼女は恋の障害になる前にあっさり姿を消してしまう。

結局のところ、本作は少年少女のイノセンスが失われる話なのだ。フィリップは童貞を失い、ヴァンカは処女を失う。プラトニックな2人の関係に肉体的な快楽が入り込む。とはいえ、近代以降の社会において童貞と処女のセックスは少ない。たいていはどちらかにセックスの経験があって未経験者を導くことになる。童貞と処女のセックスなんておたく向けのラブコメにしか存在しないのだ。そういう意味でマダム・ダルレイの登場は必然であり、少年少女を脱皮させるカンフル剤になっている。

恋に燃え上がる2人に対し、大人たちが覚めた認識でいるところが面白い。つまり、フィリップとヴァンカが将来結婚するかどうかは不確かだと告げているのだ。2人が結婚することは大いにある。と同時に、結婚しないことも大いにある。それはそうだ。フィリップはまだ16歳。一方のヴァンカはまだ15歳。適齢期までに心変わりする可能性は十分にある。人生経験が豊富な大人からすれば、思春期の恋が儚いこともよく分かっているわけだ。現実において幼馴染同士が結婚することもまた少ないのであり、総じて夏の終わりの花火を見ているような感興がある。

ところで、本作は文章が素晴らしい。

「ころぶよ、ヴァンカ、靴のひもがほどけてる。待って……」

フィリップはさっとかがむと、エスパドリーユの白いウールのリボンを両方ともつかみ、やせて敏感そうな褐色のくるぶしの上で交差させて結ぼうとした。まるでほっそりした動物の脚のようだ。走ったり跳んだりするためにできていて、硬くなった皮膚には傷痕もたくさんあるけれど、それでも優雅な脚。華奢な骨格の上には脂肪がほとんどなく、きれいな脚の線を形づくるのにちょうどいいぐらいの筋肉がついているだけだ。そんなヴァンカの脚は、欲望を呼びさましはしないが、人が芸術作品の美しい様式に捧げる気持ちの高ぶりと似たものを、引き起こす。(p.64)

大人の脚になる前の少女の脚。イノセンスの何たるかを表した名文だと思う。