海外文学読書録

書評と感想

トーマス・マン『だまされた女/すげかえられた首』(1940,1953)

★★★★

日本オリジナル編集の短編集。「だまされた女」、「すげかえられた首 あるインドの伝説」の2編。

「その通りよ、かわいいおまえ! まあ、なんておまえは自由に大胆に率直にその言葉を口にするんでしょう。とてもわたしの口からは言えないわ。わたしは長い間その言葉を胸の奥深くに閉じこめてきました、その言葉が語る恥ずかしい幸せや苦しみの一切合切といっしょに。――みんなに隠してきたわ、おまえにさえも、厳重に隠してきたのだから、母親の年配の女としての気品を信じていてくれたおまえは、そんなばかなと、びっくり仰天するでしょうね。そうです、わたしは愛しています。熱く恋い焦がれています。天にも昇る気持になり、苦しみに胸をふさがれます。おまえがかつて青春の日々に愛していた時と同じなの。わたしの感情は、かつてのおまえの感情と同じで、理性の前では持ちこたえられないの。自然が奇蹟のように贈ってくれた魂の春をどんなに誇りにしていても、やっぱり苦しんでしまう、かつておまえが苦しんだのと同じように。それでおまえに、もうなにもかも話してしまいたくて堪らなくなったのよ」(pp.52-53)

以下、各短編について。

「だまされた女」(1953)

1920年代。ロザーリエ・フォン・テュムラー夫人は10年前に夫を亡くして以来、娘のアンナ、息子のエードゥアルドとともに寡婦暮らしを続けていた。ロザーリエは50歳。アンナは30歳である。ある日、ロザーリエはアメリカ人のミスター・キートンを息子の家庭教師につける。ミスター・キートンは24歳。ロザーリエはミスター・キートンに恋心を抱くのだった。

短編としての構成が良かった。理性と感情の対置、自然と愛の調和を通奏低音にしつつ、ロザーリエの境遇を『旧約聖書』【Amazon】のサラに重ねている。サラは90歳でイサクを産んだのだった。ロザーリエは自身の老い、特に生理が終わったことについて悩んでおり、それがミスター・キートンとの恋愛における心理的障壁になっている。現代人からしたら、ロザーリエはミスター・キートンに告白しても何ら問題はないだろう。恋に年の差は関係ない、という建前があるのだから。しかし、当時の人にとってはハードルが高かったはずだ。率直に言って、閉経した女が24歳の男に告白するのはとても大胆である。男からしたら子供を産めない女との恋愛は相当な抵抗があるのではないか。そこが『旧約聖書』のサラと違うところで、妊孕性の有無が作中に大きく横たわっている。

ヨーロッパとアメリカの対比も見逃せない。ミスター・キートンアメリカ人でありながらアメリカが嫌いで、ヨーロッパの重厚な歴史に惹かれている。アメリカにあるのはヒストリーではなく、短く平板なサクセス・ストーリーであり、景観の後ろには何もない。一方、ヨーロッパには深い歴史的なパースペクティブが備わっている。本作を読んで、ヨーロッパに憧れる人の気持ちが分かった。

「すげかえられた首 あるインドの伝説」(1940)

鍛冶屋のナンダと商人のシュリーダマンは親友同士。ある日、シュリーダマンが美しい娘シーターに一目惚れする。ナンダの仲介によってシュリーダマンとシーターが結婚するのだった。ところが……。

奇妙な三角関係の話である。というのも、首のすげかえによってナンダの体を手に入れたシュリーダマンは、その体を使ってシーターに快楽を与えている。シュリーダマンの頭がナンダの体を動かしているのだ。ここで疑問が生じる。果たして行為の主体はどちらにあるのだろう? 仮にフィフティ・フィフティだとすると、夜の営みは親友同士の共同作業になる。ここに一夫一婦制を超越した倒錯があって、事実上、シーターは2人の夫を持っていることになる。シーターはシュリーダマンの高貴な精神を愛し、ナンダの逞しい肉体を愛している。ナンダの頭とシュリーダマンの体が蚊帳の外とはいえ、それでもシーターが親友同士の共有物になっているところが面白い。精神と肉体がちぐはぐになることで新たな扉を開いている。

似たような話に『ジョジョの奇妙な冒険』【Amazon】がある。同作では首だけになったディオが宿敵ジョナサンの体を乗っ取って生き延びた。その体で子供まで残している。子供はジョナサンの血を引いているものの、同時にディオの息子として扱われていた。こういった宿敵同士(と同時に同じ釜の飯を食った友人同士でもある)の合作は神話めいていて心ときめくものがある。