海外文学読書録

書評と感想

オリバー・ストーン『オリバー・ストーン オン プーチン』(2018)

★★★★

映画監督のオリバー・ストーンがウラジミール・プーチンにインタビューしている。2015年7月~2017年2月のインタビューを基に制作。

全4回。

西側のメディアがプーチンに対し、ここまで密着取材したのも珍しいのではないか。カメラの前のプーチンは、専制君主のイメージとは裏腹に洗練された物腰の好人物といった顔を見せている。とにかく受け答えや佇まいがスマートなのだ。たとえば、日本の総理大臣に密着取材してもこんな絵面は出て来ないし、アメリカの大統領に密着取材しても同様だろう。プーチンからは貴族のような気品さえ感じられる。

番組はプーチンへのインタビューを通して逆説的にアメリカの問題を照射するような作りになっている。むしろ、プーチンはそのためのダシにされているのではないかと懸念するほどだ。アメリカはアフガニスタンで「テロとの戦い」をしていた一方、ロシアのチェチェン紛争に介入して反体制組織を支援した。また、2014年のウクライナ危機でもアメリカが一枚噛んでいる。アメリカはNATOを使って東欧諸国とロシアを引き離そうとしていた。そして、アメリカもロシアも公式には認めていないものの、お互いにサイバー攻撃を仕掛けている。ドナルド・トランプが当選した2016年のアメリカ大統領選挙が記憶に新しいだろう。こうして見ていくと、アメリカとロシアは思いのほか敵対的だ。表立って武力行使していないだけで、搦め手からガンガン仕掛けている。両国はソ連崩壊後も冷戦を続けていたのだった。アメリカにとってはロシアを1990年代の経済状態に戻すのが理想らしく、ロシアを締め上げていく様子が赤裸々に語られている。

プーチンほどの専制君主でも、カメラの前で建前を言えないとその立場は務まらないようだ。特に現代のようなグローバル社会の場合、他国民の反感を買ったら世論が沸騰して攻撃の口実を与えてしまう。だから専制君主ほど理性的に、クリーンに振る舞う必要がある。というのも、専制君主とはその国の顔なのだから。メディアを通じて威嚇するのはあくまで外交メッセージとして威嚇するのであって、このようなドキュメンタリーでは終始一貫して穏やかな顔を見せている。SNS社会では本音を語ることが重んじられているけれど、現実では、それも社会の上層では建前を述べることが重んじられている。本音なんて露ほども見せない。むしろ、本音を見せたら生死に直結すると言わんばかりに隠し通している。プーチンは取材スタッフと相当仲良くなったはずなのに、それでも肝心な部分では建前しか言わない。その自制心は見習いたいものである。

プーチン曰く。本当の意味での主権国家は少ない。ほとんどの国は同盟国の役割を背負わされている。日本人としてはこれほど耳の痛い指摘はなかった。また、ソ連もロシアも帝政ロシアの延長上で、この国は権威主義体制じゃないと統治できないのではないか。プーチンが長期間トップに君臨しているのも必然なのではないか。ロシアには未来永劫民主主義の時代は来ないのではないか。そう思わされる番組だった。

なお、この番組は書籍版も発売されている。

 

コレット『シェリ』(1920)

★★★★

49歳の高級娼婦レアは、25歳の白皙の美青年シェリと6年間愛人関係にあった。シェリの母はレアの親友で、2人は知り合って25年になる。今回、シェリが若い娘エドメと結婚することになった。レアとシェリは内心に葛藤を抱えながらも愛人関係を解消する。ところが……。

レアは起き上がると、頰についたクッションの刺繡の跡をこすった。

〈かわいそうなシェリ……思えばおかしなことね――あなたは衰えておばあさんになった愛人を失い、わたしは顰蹙を買ってばかりいた若い恋人を失って、わたしたちはどちらも、この世でいちばん誇りに思っていたものをなくしてしまっただなんて……〉(p.157)

ファム・ファタールの男女逆転版みたいな小説だった。通常だったらレアの役割は中年男性が担ったはずだし、また、シェリの役割は若年女性が担ったはずである。本作はそれを逆転させ、シェリを「運命の男」としているところが面白い。

49歳のレアは高級娼婦だけあって恋愛にかけては百戦錬磨だ。これまで何人も若いツバメを囲ってきた。彼女の自慢はおじさんとの交際経験がないことである。49歳になっても若い男を魅了する美魔女。それがレアだ。そんなレアはシェリと6年間愛人関係にあった。レアにとっては43歳から49歳まで。シェリにとっては19歳から25歳まで。結婚する当てのないままお互いに「若さ」を奪い合っている。とはいえ、どちらかというとシェリのほうが損失は大きいだろう。青年期を丸ごと一人の女性に、それも中年女性に捧げているのだから。シェリほどの美貌の持ち主なら、その若さを使って何かできたのではないか。しかし、シェリは金に困っていない。おまけに取り立てて野心もない。気の向くまま享楽的な生活に身を投じている。

そんなシェリも遂に身を固めることになった。相手は金持ちの娘エドメ。彼女と結婚すれば150万フランの持参金が入ってくる。金持ちのシェリにとっては結婚のモチベーションなんてあまりないはずだけど、自立した男性としてとりあえず社会の慣例に従っておこうという算段だろう。いつまでも若いツバメではいらないのだから。彼ももう25歳。そろそろ大人になる必要がある。

とはいえ、25歳になってもシェリの美貌は衰えていない。

彼はたちまち、腕を組んで歩いてきた婦人服店のお使いの女の子三人に、うっとりしたまなざしを投げかけられている。

「きゃー!……信じられない、お人形みたいにきれい!……触らせてくださいってたのんでみる?」

だがシェリは、よくあることなので、振り向きもしなかった。(p.17)

道行く女の子からこんな視線を投げかけられているのである(しかも、よくあることらしい)。25歳でこれなら、6年前はとんでもない美の化身だったはずだ。それを6年間手元に置いてきたレアもなかなか罪深い。たちの悪い蒐集家のようである。

終盤ではシェリが若妻を捨ててレアのところに戻ってくる。ところが、レアはそれを突き放す。このような分別を持っているところが男性主人公のファム・ファタールものと違うところだ。男性主人公なら愛欲に溺れて身を破滅させていただろう。しかし、女性主人公の本作ではそうならない。男女でこうまで差があるのは性欲の在り処に差があるからであり、とどのつまり男の性欲はしょうもないのである。

というわけで、本作はファム・ファタールの男女逆転版として興味深かかった。

ルイジ・ピランデッロ『月を見つけたチャウラ ピランデッロ短篇集』(1912)

★★★★

短編集。「月を見つけたチャウラ」、「パッリーノとミミ」、「ミッツァロのカラス」、「ひと吹き」、「甕」、「手押し車」、「使徒書簡朗誦係」、「貼りついた死」、「紙の世界」、「自力で」、「すりかえられた赤ん坊」、「登場人物の悲劇」、「笑う男」、「フローラ夫人とその娘婿のポンツァ氏」、「ある一日」の15編。

チャウラは、「月」を見つけたことに、言い知れぬ慰めと優しさを感じ、知らず知らず、泣くつもりもないのに涙を流していた。あそこで、「月」が広大な光のベールをまといながら、空をのぼろうとしている。山や平地や谷を己が明るく照らしていることにも気づかずに。驚きに満ちた夜のなか、彼女のおかげで恐怖も疲労も感じなくなったチャウラがそこにいることも知らずに。(Kindleの位置No.192-196)

以下、各短編について。

「月を見つけたチャウラ」。現場監督が採掘工に残業を言い渡す。スカルダ爺さんと彼の下にいる見習いのチャウラが夜中に仕事をする。現代は夜中でも光に溢れていて、自販機だったり街灯だったりが周囲を照らしている。人里に住んでいたら真の暗闇を体験することはまずない。だから月を見てもピンとこないところはある。というのも、それは数多くある光のひとつでしかないから。そういう意味でチャウラの体験は貴重だ。悲しいことに我々はもう自然に感動することなんてなくなったのである。

「パッリーノとミミ」。雄犬のパッリーノは子供たちの懇願のおかげで何とか処分されずに済んだ。パッリーノは人間から手酷い仕打ちを受けることで気性が荒くなる。やがて家を出たパッリーノは肉屋で飼われることに。そこで上流階級のような雌犬ミミと出会う。人間社会を映した寓話。一時期はいい関係になっても相手が落ちぶれたら容赦なく見捨てる。これは男女逆でも同じ。だから結婚という契約関係は重要なのだ。結婚は配偶者を安易に見捨てないための措置。自然状態では見捨ててしまうから契約で縛っている。それと飼い主に捨てられたら生きていけないのが当時の女の悲しいところでもある。その点、現代の資本主義社会は恵まれているのだ。

「ミッツァロのカラス」。羊飼いがカラスの首に小さな青銅の鐘をつけて野に放つ。カラスは鐘の音を鳴らしながら飛び回る。ある日、農夫のチケはカバンに入れたパンを盗まれたことに気づく。下手人がカラスだと断定したチケは罠を仕掛ける。ラストは間抜けな人間の間抜けな死に方という感じだけど、人間は誰だって間抜けになる可能性があるから笑っていられない。余計なことをすると落とし穴にはまってしまう。そういうのが世の理として存在する。

「ひと吹き」。「私」の知人が突然死した。色々実験していくうちに、「私」が息を吹きかけた人間が死ぬことに気づく。「私」は肉体を失い、疫病そのものになるのだった。「私」に息を吹きかけられた人間も災難だけど、何の理由もなしに人間性を失う「私」だって災難だ。人を殺す能力も善し悪しで、たとえば、デスノートみたいなのだったら僕も欲しい。殺したい人間が何人かいる。しかし、本作みたいに直接息を吹きかけないといけないのは不便だし、何より人間の形状を失うのは理不尽だ。やはり人を殺す能力なんていらないと思う。

「甕」。農場主のドン・ロロが巨大な甕を購入する。ところが、その甕が真っ二つに割れてしまった。ドン・ロロは職人のディーマ親方に修理させる。これは上質な喜劇だった。ドン・ロロもディーマ親方も程良く戯画化されていて面白い。平時では主人と使用人の立場があるけれど、非常時ではその枠が取っ払われる。ラストも痛快ではないか。

「手押し車」。地位も名誉もある「わたし」の背徳的な行為。サイコサスペンスみたいな出だしだったから相当えぐいのを予想したら「おいおい」って感じだった。こういう風に外してくるところが面白い。気になるのが語り手の離人感で、自己同一性の揺らぎをこの時代に書いているところが興味深かった。己を形作るのは行為と結果しかない。そこに己を感じなくても事実として存在する。なかなか哲学的な命題ではないか。

使徒書簡朗誦係」。使徒書簡朗誦係とあだ名されたトンマシーノが信仰を失い還俗する。ある日、トンマシーノは些細な理由から中尉と決闘することになった。昔の人は名誉を守るため、くだらない争いで死んでいたようでぞっとする。それもこれも世間に横溢するマチズモのせい。信仰を失うことは許されても名誉を失うことは許されない。ところで、本作はラストが名場面だった。

「貼りついた死」。列車に乗り遅れた男と他人を観察して人生を想像する男の会話劇。想像力を駆使して他人の人生にしがみつくのって、「趣味は人間観察」みたいな不穏さがあるけれど、作家になるような人物は大抵この類ではなかろうか。本作の場合はまた倒錯していて、男は人生の不快さを知るために他人の人生にしがみついている。人生なんて取るに足りないものだ、と安心したいのだ。翻って我々が物語を求めるのも同様の理由からで、そこには現実逃避の意味合いがある。

「紙の世界」。読書家のバリッチは盲目になったため、朗読してくれる女性を雇う。ところが……。紙の世界が彼の世界のすべてで、行き過ぎた読書は人生を損なうものだと痛感する。そりゃ現実を直視するよりは本を読んでいるほうが遥かに楽だから。たとえるならネトゲ廃人のようなものだろう。どちらもバーチャルな世界に生きている。でも、こういう特異な人生を歩む者が一人くらいはいてもいいと思う。人生は一度きりなのだから好きに過ごさせたらいいのだ。

「自力で」。3年前に人生が変容したマッテオが、自分の足で墓地に向かう。「手押し車」と同様、自己同一性の揺らぎを題材にしている。自分が何者であるかを見失う感覚って、現実から居場所を失ったときに現れるのだろう。それも離人症的な症状を伴って。自分の足で墓地に向かう様はまさに生ける屍だった。

「すりかえられた赤ん坊」。ロンネの赤ん坊がすり替えられた。やったのは《ドンネ》という魔女で……。取り替え子はフィクションでよくあるモチーフだろう。僕が一番好きなのは『キン肉マン』【Amazon】である(王位争奪編)。本作の場合、愛されざる赤ん坊を愛するための知恵が提示されるも、それが2人目の出産で崩れてしまう。面白いのは知恵を貸したヴァンナおばさんが守銭奴で他人の不幸にかこつけて金をせびっているところだ。こういうやり手ババアは洋の東西どこにでもいると感心する。そして、当の取り替え子はネグレクトされるのだった。

「登場人物の悲劇」。作家の「わたし」が未来の登場人物たちの面接をする。その中にフィレーノ博士という野心的な人物がいて……。フィレーノ博士は他の作家が書いた小説の登場人物で、「わたし」によって不死を与えられたいのだという。現代日本では異世界転生ものという人生やり直しコンテンツが流行っているけれど、フィレーノ博士の望みも人生やり直しだろう。面白いのはフィレーノ博士が登場人物という入れ子の中の存在であり、一種のメタフィクションになっているところ。こういうのは異世界転生ものでもまだないと思う。

「笑う男」。アンセルモ氏は毎晩寝ている間に大声で笑っている。そう妻に指摘される。しかし、アンセルモ氏には心当たりがない。医師によると夢が原因のようだが……。人間が笑うのって大抵はくだらないことが原因だ。幸せだから笑うのではない。お笑い番組を見て笑えないのは出演者がみんな勝ち組で、勝ち組が道化を演じているからだ。情報化社会にあっては本物の道化を見ないと笑えないのである。

「フローラ夫人とその娘婿のポンツァ氏」。フローラ夫人とその娘婿のポンツァ氏が引っ越してくる。ところが、2人は別居していた。2人の間にはフローラ夫人の娘、すなわちポンツァ氏の妻を巡って話の食い違いがある。どちらもそれぞれ物語があって、相手のことを狂人と断じている。自分は相手に合わせて役割を演じているのだ、と。話を聞かされた人たちはどちらの言い分を信じたらいいのか分からない。読者も分からない。そういう奇妙な短編だった。

「ある一日」。「わたし」は眠りから引き剥がされ、通りかかった駅にいきなり放り出された。気がつくと見覚えのないプラットホームの暗がりに立っている。「わたし」は列車に乗って旅に出た覚えもなかった。アイデンティティの揺らぎがカフカ的不条理にまで接近していてスリリングだった。自分の人生が自分のものとは思えない離人感。著者はそういうモチーフが好きなようだ。ここから異世界転生までの距離は近い。

マクシム・ゴーリキー『二十六人の男と一人の女 ゴーリキー傑作選』(1895,1899,1912,1913)

★★★

日本オリジナル編集の短編集。「二十六人の男と一人の女―ポエム―」、「グービン」、「チェルカッシ」、「女」の4編。

俺たちは、俺たちの偶像の強さを試してみたくてしかたがなかったのだ。俺たちの偶像が堅固であり、この戦いで勝者となるに決まっていることを、俺たちは張りつめた気持ちでたがいに論証しあった。しまいには、けしかけ方が足りなかったので、兵士あがりはさっきの言い争いを忘れるかもしれない、奴の自尊心をもっと刺激しなくてはという気になってきた。(p.23)

以下、各短編について。

「二十六人の男と一人の女―ポエム―」。26人のパン職人の男たちは半地下で奴隷みたいな労働をしていた。彼らの唯一の慰めはターニャという女で、ターニャはよく彼らのパンを買いにくる。あるとき、兵士あがりの男が現れ……。男たちにとってターニャは陽の光であり、崇拝の対象であり、偶像である。そういう意味で本作は宗教寓話と言えなくもない。男たちが敗北したのは兵士あがりの男を使って偶像を試したからだ。これはもちろん、「神を試してはならない」という聖書の逸話に基づいている。

「グービン」。「私」は居酒屋でグービンという男と出会い、彼と行動を共にする。グービンは富裕層出身で法を重んじていた。今まで意識してなかったけれど、ロシア文学って人生の敗残者に焦点を当てているのが多いような気がする。そういう人たちは得てして酒を飲んでくだを巻き、青筋を立てながら議論に興じるわけだ。語り手が指摘するように「ロシアの憂鬱な生活の反映」なのである。また、グービンは法を重んじているものの、西洋においては宗教が道徳を定めていて一筋縄ではいかない。神の前では人は同じように愚かという人生観があり、人の行動はしばしば法の枠内から飛び出す。本作はその二重性が垣間見えるところが興味深い。

「チェルカッシ」。泥棒のチェルカッシがガヴリーラという若者を仕事に誘う。夜間、ガヴリーラに舟を漕がせて目的のブツを盗んだ。ガヴリーラは田舎からの出稼ぎで金を欲しがっている。金こそが自由になる唯一の道だけど、かといって悪になりきれない。そんな2人のもどかしいやりとりが良かった。読んでるときはガヴリーラがいつチェルカッシを海の底に沈めるかハラハラしていたのである。チェルカッシはチェルカッシでガヴリーラに同情してるし、ガヴリーラはガヴリーラで罪悪感から逃れられない。近代的自我とはこういうものかと納得した。

「女」。カフカース。コサックが暮らす地域にロシア人たちが流れてくる。その中にはコニョフやタチヤーナがいて……。男にとって女は母親の代わりであるとはよく言われることで、タチヤーナもそう認識している。彼女は聖母マリアに擬せられるのだった。また、当時の女は暇なようで忙しく、次々と子供を産んでいくうちに老いさらばえてゆく。こういうのを読むと、やはり少子化は資本主義の発展が原因なのだと思う。女も男と同じく職能を身に着けて働かねばならない。生産性を重視すればするほど出産から遠ざかっていく。日本が沈んでいくのも宿命なのだった。

エミール・ゾラ『オリヴィエ・ベカイユの死/呪われた家 ゾラ傑作短篇集』(1876,1878,1879,1880,1899)

★★★★★

日本オリジナル編集の短編集。「オリヴィエ・ベカイユの死」、「ナンタス」、「呪われた家――アンジュリーヌ」、「シャーブル氏の貝」、「スルディス婦人」の5編。

再びあたりが静かになったとき、僕はこの悪夢がまだずっと続くのだろうかと思った。僕は生きていた。自分の外で起きていることがなんでも残らず感知できるのだから。そこで僕は自分の体が正確にどういう状態にあるのか考え始めた。これはきっと強硬症というやつに違いない。以前そんな話を聞いたことがある。僕は子どものときから、例のひどい神経性の病気にやられていたので、何時間も失神してしまうことがあった。間違いなく、僕が死人のように硬直してしまっているのは、そしてまわりの人たちに死んだと思われてしまっているのは、この種の発作を起こしているからだ。そのうちまた心臓も鼓動を打ち始め、血液も循環し、筋肉の緊張も解けるに違いない。そうして僕は目を覚まし、マルグリットを慰めるのだ。そう考えて、僕は辛抱強く自分を勇気づけた。(Kindleの位置No.211-218)

早すぎた埋葬やコキュ(寝取られ男)、芸術家小説など、当世的なテーマを扱いながらもすべて最高レベルの小説に仕上げている。これは素晴らしかった。

以下、各短編について。

「オリヴィエ・ベカイユの死」。3日間病気で寝込んだ末、語り手の「僕」が死ぬ。ところが、意識は明瞭で周りで起きていることを知覚できていた。「僕」は生きたまま土に埋められるのを恐れている。そうこうしているうちに棺に入れられ……。「早すぎた埋葬」を描いた短編。19世紀にはこの手の小説が流行っていたらしい。死んだ人間が蘇ってもろくなことはなくて、愛する妻は隣人に取られてしまった。「僕」は一度死ぬことによって人生の真実を知る。途中まではあれだけ死の恐怖に取り憑かれていたのに、ラストではそれを克服しているのだからすごい。まさに死と再生の物語だ。

「ナンタス」。飽くなき野心と力への信仰を持ったナンタスは田舎からパリに出てくる。しかし、そこでの成功はおぼつかなかった。そんな矢先、見知らぬ老嬢からある提案をされる。金持ちの令嬢と結婚してほしいというのだ。令嬢は妊娠しており、ナンタスに父親として認知してもらいたいのだという。ナンタスはその話を引き受ける。現代人からすると、この時代は愛への信仰が強くてどん引きする。というのも、当初は契約結婚だったはずが、いつしか名義上の妻を愛するようになり、彼女から拒絶されることで自殺を決意するのだ。折しも事業は好調で、念願だった財務大臣にまで上り詰めたのに……。それだけ社会的地位が高ければ女なんて選びたい放題だと思うけど、ナンタスは妻に一途な愛を向けている。愛とは条理を超えたものということか。本作は19世紀の価値観が分かって興味深い。

「呪われた家――アンジュリーヌ」。荒れ屋敷に興味を抱いた「私」は屋敷にまつわる逸話を知る。第二帝政期、そこには一家が住んでいたが、娘のアンジュリーヌが継母に殺されたという。言い伝えというのも案外いい加減なもので、後に最初の説とは違った異説を聞かされる。おまけに時は近代的合理主義の時代。呪われた家といえども幽霊なんて出てこないのだ。死んだアンジュリーヌの幻影が生きたアンジュリーヌに引き継がれるラストが素晴らしい。

「シャーブル氏の貝」。元穀物商人のシャーブル氏は家柄のいい若い女エステルを娶ったものの、2人は子供に恵まれなかった。医者から「貝を食べるといい」とアドバイスされたシャーブル氏は、妻と一緒に海水浴に行く。そこで妻は現地のエクトール青年といい感じになり……。フランス文学伝統のコキュ(寝取られ男)を扱っている。本作で面白いのはシャーブル氏に死の予感がよぎるところだろう。というのも、一瞬とはいえエクトールに生殺与奪の権を握られてしまうのだ。結果的には助かるのだけど、読んでいるうちはなかなかスリリングである。また、コキュというのは例外なく滑稽だ。いくら金持ちでも老年である以上、若い肉体には敵わない。シャーブル氏は男性としての魅力でエクトールに負けている。この辺も残酷だった。海辺が似合うのはいつだって若い男女なのだ。

「スルディス婦人」。フェルディナン・スルディスは学校で自習監督をしながらプライベートでは油絵を描いていた。その芸術性を有名な画家レヌカンに認められる。やがて画材店の娘アデルがフェルディナンの絵を模写することに。彼女の複製画がオリジナルよりも評判を得る。アデルはフェルディナンにある取引を持ちかけるのだった。芸術家小説である。フェルディナンとアデルの関係が変遷する様子を絵画制作と絡めて語っていく。代作や共同制作って芸術ではよくある話なのだろう。小説だと、たとえば川端康成はよく代作させていたし、エラリー・クイーンフレデリック・ダネイとマンフレッド・ベニントン・リーによる共同制作である。荒々しい才能のフェルディナンと繊細な技巧を持つアデル。後者が前者を侵食し、遂には覆してしまうところがたまらない。